あきれた子たち

 〜とはいってもこれは特別なことではなくて、今の日本社会に共通した心のあり方ではないかという気がする〜

Sun.June.11,2006(原文)
Wed.Mar.18,2009(更新)

[ハイサーイ!私の徒然草]

    町内では毎週金曜日は不燃物回収の日である。深夜に回収車が来るから、ボランティアで不燃物庫に持込まれた不燃物の整理をしているもうすぐ70歳代半ばになる山田さんが言った。

    すぐ裏に中学校がある。不燃物庫の前を通りかかった下校中の5,6人の男の子たちに「今晩は!」と声をかけた。そしたらその中の1人が何と言ったと思いますかと言う。

    「おいさん!あんたホームレスな」(おじさん!お前ホームレスか)そして不燃物庫を指さして「そこに住んどうとね」と言ったそうである。戦前派の山田さんがその子を捕まえて、何ということをいうか、名前は何というかとたずねた。

    ところで、その2日後の今日、私は文化センターの大ホールで開かれた防犯協会の集会に出掛けた。司会者がいて、壇上の4人の発表者がそれぞれの活動状況を報告した。その中のPTA副会長の若いお母さんが言った。

    小学生に「おはよう!」と声をかけたら、その小学生から「お前なんか知らん!」と言われてショックだったという。

    2日前の中学生のことを聞いていたから、今日の小学生の話を聞いて、今どきの子はいったいどうなっているのかとあきれた。2つの出来事が偶々重なっただけなのか。子どもたちのこういう反応の仕方というのは大人社会の反映であって、世の中が少し変になっていることの表れではないかと思った。

    なぜこうなったかのでしょうかね・・・・。

    ひとつには経済中心の競争社会で、教育までもが学力競争の中で、人は物、お金、試験の点数など外面ばかり見て、心を置き去りにしてきた。人の気持になど思いが至らなくなった。もう忘れてしまっているかもしれないが、高度経済成長期には日本人はエコノミックアニマルと呼ばれ、海外でひんしゅくを買った。

    情報時代がやってくると、知識や情報の洪水の中で、物知りであることが然もいいことであるかのように錯覚して、高齢者を情報弱者だと思って軽視する。人は長く生きてこなくては決してわからないことがあるものだとはつゆほども思わなくなった。

    知識や情報はいわば、中味すかすかの繊維だけの「へちまのたわし」みたいなものである。知識や情報は現実世界の抽象であって、知識や情報からイメージした世界は「仮想世界」でしかない。仮想世界を現実と錯覚する。

    生きた世界は言葉にするとへちまのたわしになる。インターネットがあれば何でもわかると思うかもしれないが、知識や情報からは自分の人生経験以上のことはわかりはしない。何でも理屈で解決できるとでも思っているようである。

    言葉と言葉の間(ま)に真意がある。文章の言葉の鎖は繊維でしかない。言葉の鎖をいくら論理的に解釈しても何もわかりはしない。言葉の鎖の隙間に真意がある。行間に真意がある。紙背に真意がある。生きた世界とはそういうものである。

    温故知新という言葉は死語になった。前の世代から何かを学ぼうとする姿勢はない。大切なことは人から人へしか伝わらない。活字や数字では伝わらない。知識や情報では文化の継承はない。文化は断絶し、日本人としてのアイデンティティを失い日本国籍だけが残った。太平洋戦争敗戦前まで存在した日本人の心情、日本の詩情も、日本文化の香りも消え失せた。

    私の祖父母の時代は、小学校か高等小学校までで、上の学校に進むことができる人は少なかった。親は子に勉強のことで口やかましくいうことはなかった。しみじみとした会話があった。現代よりはるかに子どもの心は立派に育った。