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自分が育ってきた環境、どういうしつけをされて、どういう教育を受けてきたか、そのすべては、自分にとっては普通と感じる。これまでの流れを疑うことなく、変わりたいと思わない限り、ほとんど遺伝のように受け継がれて行く。 もし、人生のある時点で、果たしてこれでいいのだろうかと自分のあり方を疑うことがあったとすれば、あるいは、先生や他の人に叱られたとき、自分がいかにでたらめをしてきていたかに気づくとすれば、それは三つ子の魂の中にそのことに気づかせるきらりと光る価値観がインプットされていたから。 昔、世の中の大方の人々が、人間としてそういうことはよくない。悪いことだと考えていたことでも、時代が下り、昔よくないと考えられていたことをよくないことだとは考えない人々が90%にもなれば、そのよくないことがいわゆる“ふつう”になる。それでいいではないか、どこが悪いのかとなる。それでいい場合もあるし、不都合な場合もある。 社会の価値観の流れは時代ともに変わる。しかし、人間としてしあわせであるためにはどうあるべきかという原点の問題は平安時代だって、現代だって変わりはない。たとえそれが少数派であったとしても変わりはしない。わかりやすい例としては、「人のものを盗んではならない」というのは当たり前のことだが、現代ではかなり崩れてきている。これがどんどんエスカレートすれば、「とられる方が悪い」となる。 そこに「温故知新」の大切さがある。今しか知らずしては今は見えない。先きも本当には見えない。私はそう思う。自分は“ふつう”だと思っている限り、時代にどんどん流されて行く。水は高い方から低い方に流されて行く。民主主義の自由をちょっと立ち止まって疑って見ない限り腐敗と堕落あるのみ。「ふつう」という言葉は好きではない。 自由と背中合わせにあるのはトラブルである。親しい仲にも礼儀ありとか、君子の交わりは淡きこと水の如く、小人の交わりは甘きこと醴(れい・甘酒)の如しという。古くて新しい言葉である。トラブル多発社会でも自由がいいかどうかは選択の問題である。 |