| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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現代日本の政治家にはその自覚がない。これは裏を返せば国民も同じだということだ。最近わからないのは、突然政権を放り出した元総理大臣が未だに政界で大きな顔をしているとか、沖縄普天間問題で取り返しのつかない不始末をしておきながら、未だに党内で大きな顔をしているとか、次ぎの選挙には出ない宣言をしておきながら、また、前言を簡単に翻すなど、あの神経は絶対に理解できない。 “いわゆる”優秀だといわれた二代目ボンボン政治家も一流ではなく、二流三流だということである。今の日本には「六分の侠気、四分の熱」の持ち主などいはしない。こうすればこうなるという処方箋ではこの日本はどうなるものでもない。比較的劣化の少ない人物を政界、財界に送るしかない。しかし選ぶ側も二流三流だから仕方がない。経済競争に明け暮れているうちに国そのものが二流三流に凋落したということである。 太平洋戦争前の日本の記憶と太平洋戦争中の生活の記憶があれば、敗戦後移植されたアメリカ民主主義により日本人が日本人としてのアイデンティティを喪失してきたかことは歴然である。 更に、高度経済成長と情報化がもたらした心の荒廃と教育上の問題、西洋文明の不可避的矛盾。高度経済成長期には私は教師をしていたからいわせてもらえば、国の教育政策はすべてが経済中心だったといえる。私は物理を教えていた。物理の教科書はころころころころ節操もなく改定されてよくなるどころか悪くなった。とにかく一握りの生徒にしか理解できそうもないくらいにやたらと難しくなった。教育は経済発展のために振り回されてきた。 この70年、80年の社会の変化をみてきた者には現代社会の病が救いがたいほどに深刻であることがわかる。社会の病気は深刻になるばかりである。 太平洋戦争敗戦を境に日本人の内面劣化がはじまった。温故知新という言葉がある通り、それは過去30年かそこらを見ただけではわからない。 アメリカ文化、西洋文化の物の考え方、つまり科学的ものの考え方、学問のあり方、経済のシステム、科学と技術と経済が結びついて、経済中心に動いてきた社会。それは物と金と情報と数字による際限なき競争主義。本来の精神活動であるはずの学問までもが競争原理で破壊され、滓(カス)ばかり頭に詰め込んで理屈ばかり言う。単に優秀なだけならば、如何に優秀であっても、二流にも三流にも四流にもなりうる。いわゆる優秀といわれる人々は山ほどいても、一流の人物は風前の灯火。それが今の日本である。 坂本龍馬や坂の上の雲に登場する人物像と現代人とを比べてみればわかる。あるいは、現代でも、どんなに貧しい暮らしをしていたとしても、開発途上国の人々のたくましさと現代日本人のひ弱さを比べてみれば歴然である。物見遊山の旅行ではなくて、どこの国の言葉でもいい、外国語を学んで海外に出てみれば、それを思い知らされる。それは日本にいてはわからない。 今の世の中で普通と考えられていることを当たり前だと思うことの危険を感じている。普通といわれる多数派によってこの社会は凋落していく。世の中とはそういうもの。 しかし、現実は「三つ子の魂(育ち)」がそう簡単に変わるはず派なく、聞く耳もたずの、違った結論の持ち主どうしで議論してもはじまらない。言葉尻をとらえた不毛の議論は互いに無用。50代、60代はすでに現代っ子のはしりだから、それよりも高齢者(80歳代、90歳代)のお話に傾聴して過去に思いを馳せるとか、海外の言葉と文化を学ぶとかして、海外に目を開けば今の日本の惨憺たる現状が身にしみる。 水は自由にすれば高い方から低い方へ流れていく。人間の精神も自由にすれば高い方から低い方に流れていくのが多数派である。物と金と情報にばかり心を奪われ、競争原理に振り回された結果、心が薄くなったことにある。内面性の欠如した民主主義は腐敗と堕落以外にない。 |