| ハイサーイ!私の徒然草 | 小春日和の韓国語のお勉強 |
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4月10日の朝日新聞朝刊福岡版の15面に「原発の教え方に悩む」という見出しが気になった。 小学校高学年の新学習指導要領にある「エネルギー教育」の一環として、資源エネルギー庁から届いた副教材のDVDを見せた。 先生はプルサーマルで燃料リサイクルができる、二酸化炭素が排出されない、放射性物質が出ないように原子炉圧力容器や格納容器、建屋など五重の壁でしっかりとじこめていると原子力発電の利点と安全性を教えていた矢先に今回の地震、津波、原子炉事故が起きたという。まさにカリカチュアである。 ところが、今回の事故で原子力発電の危険性がしっかりと行き渡った。私が現役の頃は教師は原発が安全なはずがないという考えを持っていた。安全神話は疑ってかかっていた。私が物理の教師をしていたこともある。 チェルノブイリの事故あり、スリーマイルの事故があっているにもかかわらず、まだ、日本の原発は安全だと考えてきたことの馬鹿さ加減にはあきれる。どこの国だってそれなりに安全対策をしてきたはずである。「2度あることは3度ある」という昔のことわざどおりである。3度あることはどんなに注意しても4度、5度あることがわからないのだろうか。 原発の利点と安全性だけを教えてきたとすれば、それは非常に一面的である。原子力発電を推進していこうとしていた政府、行政機関から出された教材というのは、いいことばかりである。それを無批判に、つまり危険性については教えず、原発推進教育をしっかりとしてきたとすれぱ問題である。 40年も昔の教師ならば原発の危険性を心配して原発反対の考えをもっていた。高校の物理レベルの学力でも、物事を深く考えるならば、勉強は高校レベルからさらに発展して原子炉に対する相当の理解をもつことはできる。 原子力発電所の見学にいけば、大体昼食つきで、安全安全と安全神話を演出する。多くは、なんとなく安全なんだという気分になってしまう。少し物を考えれば、鵜呑みにすることはないはずである。電力会社の幹部も社員も誰一人、もしかして思いもかけないことが起きたらどうしようと心配にならないのか。 それはいくら電力が必要だから、いくら日本に資源が少ないからといって、一度想定外の事故が起きれば、元も子もない。元も子もないどころではない。世界人類の子々孫々にいたるまで禍根を残し、この地球上に地獄絵が展開するときがくるにちがいない。そういう恐怖感はないのだろうか。 腹が空いていれば、ここに10個の饅頭があったとして、その1つに時限装置つきの毒が入っているとわかっていてその饅頭に手を出すだろうか。まさか自分が手にした饅頭には毒は入っていないよね。確率は十分の一だもんね。 まさに世界中の指導者も企業関係者も国民もそういう感覚で原発を選択しているといえる。その巻き添えを食らうなんて恐ろしいことです。学校の教師はもっと物事を疑ってかからなくてはいけない。 太平洋戦争中、国が戦争色で塗りつぶされていたときは、教師は生徒を戦地に送り出し、戦って死ぬことを名誉なことだと教え、終戦になったら戦争は悪だと教えなくてはならなくなった。よく似ているではないですか。 少なくとも教師は世間の多くが考えていると同じことを考えていてはいけないのです。時代の流れに対する批判精神、疑ってみるだけの思考力、自分の哲学を持たなくてはいけない。それが本当の学力というものではないですか。 電力が足りないのはどうする。それは原発は絶対にだめ。禁断の果実である。毒入り饅頭であるということを認識していれば、安易に原発に走ることなく、他の発想、知恵がわいてくる。 電力の無駄の削減。もっと自制的な生活をする。国民の精神を低俗化する低俗なTV番組を整理する。民放を整理する。それを見ている国民が浪費する電力を節約する。原発にかかる無限大のコストを各家庭の電力をまかなうために太陽光発電を普及させることに使う。 腐敗と堕落の民主主義を野放しにしている限り、この社会はいずれ破綻する。人々の心も破綻する。競争の原理で物を考える限り、原発を限りなく作り続けなくてはならない。そんなことができるわけがない。人生観の大転換が必要なのです。 |