原子力という禁断の実

Thu.Mar.24.2011

ハイサーイ!私の徒然草 小春日和の韓国語のお勉強
環境エネルギー研究所
 素人は恐ろしいと昔からいう。

 これまで電力会社は地震に強いことを強調してきた。しかし想定外の大津波が起きた。政府は点検中で休止している原発を再開する前に津波への安全対策を示せと指示した。問題が起きると対策を考えるのは当然だが、原発に潜む危険は地震と津波だけか。また想定外の事故が起きないと断言できるか。

 断言できないのならなぜ原発に手を出したのか。なぜ原発を推進してきたのか。原発事故は他の事故と同列に考えることはできない。この地方は過去の例からして大地震は来ないだろう、大津波は来ないだろう。全部がほとんどその道の素人に近い連中の「だろう、だろう、だろう」で判断しているのではないか。

 私が、一番疑いをもっているのは、電力会社や、原発推進派(原発族)に都合のいいデータを出してくれる御用学者の意見ばかりを聞いているのではないかということである。

 それは、いつもあとで出てくるのだが、東北沖の海底の研究、地震研究における最高レベルの研究者の意見はほとんど聞いていなかったのではないかと私は思った。それは他の原発についても言えることである。最新の研究成果など眼中になく、こういう問題に対しては素人に近い技術者がいろいろときめているのではないか。

 ノーベル賞学者の野寄博士の話を先日テレビで見た。この国では、最高の頭脳の意見を求めることはほとんどないのではないか。ノーベル賞学者が皆地震や津波に詳しいとは言えなくても、物事の決定の手順や、原則についての哲学をおたずねすべきである。

 原発に関する限り、想定外ということは絶対に許されない。一度事故が起きれば元も子もない。その事故の大小の程度はともかく、放射能漏れ事故があちこちの原発で起きれば、大地に降り積もり、半減期が秒単位、時間単位、日単位であればやがて消える。しかし、年単位、何10年単位、何百万年単位であれば簡単には消えない。事故のたびに自然放射能が追加されていくことになる。放射能漏れを隠蔽して済む問題ではない。

 もっと大きな地震が起きたら、もっと大きな津波が起きたら、原子炉が老朽化したら、使用済み燃料棒の処置は、とんでもないことをしかねない北朝鮮のミサイルが飛んできたら、まさかそれはないと言い切れるか。原子炉の原理は簡単でも物が物だけに地震で炉は停止しても、パイプが壊れたとか、炉にひびが入ったとかで放射能漏れが起きては困る。手を出してはいけなかったのです。

 原子核工学の専門家が本当に原発の危険を認識しているのであれば、こぞって原発建設に反対したはずだ。過去には物理学者が原子爆弾の製造を指南している。人間はそんなに賢くはない。

 原子力発電所建設にかかわってきた技術者たちは技術を過信し、思い上がっている。自分の技術を疑ってみるだけの謙虚さや慎重さがない。人間が考えることは高が知れているという認識がない。万が一にも想定外のことが起きたらどうするかという「万が一思考」がない。技術力で原子炉の危険は克服できると思っている。

 原発推進論者も愚か者である。今回のような事故が起きれば元も子もないという想像力の欠如である。長年の間にはいつかどこかで事故が起きる。この地球は放射能で少しずつ汚染が蓄積していく。その度に原子炉の石棺が増えていく。中の放射性物質は自然崩壊によって永久に熱を出し続ける。未来永劫にわたって事故原子炉の墓守をしなくてはならない。

 産業革命当時は、少々工場が煙を出しても空は無限に広いと考えていた。しかし今ではどうですか。大気の層は緯度や季節によっても変動するけれども緯度が高くなれば10km以下にもなるし、夏の赤道地方でも18kmしかない。二酸化炭素削減しなくては地球が滅びてしまうという崖っぷちに経たされているではないか。放射能汚染の問題はもっと早くやってくる。

 資本主義社会はすべてが物と金で動く世界である。資本主義は競争の原理で動く。競争に勝つためには資源を際限なく浪費し、エネルギーを際限なく要求する。そして、とうとう手をつけてはならない「禁断の実」である原子力発電と核兵器に手をつけてしまった。もうひとつの禁断の実は臓器移植である。あとは破滅の道をまっしぐらである。

 資本主義という西洋発の社会の仕組み、西洋発の科学技術、その他あらゆる西洋発の学問の仕組み、論理的思考、それは物事を断片的にしか考えることのできない石頭的思考、言い換えればデジタル思考の欠陥である。

 デジタル思考には必ず大きな隙間がある。ひとつひとつの場合をしらみつぶしに調べて積み上げていくけれども、デジタルだから出来上がった結果にはすき間が残る。そのすき間が思考の欠陥になる。予想外のことが起きる。

 論理的思考というのは単純思考である。単純思考の膨大な積み重ねである。しかしいくらデジタル思考を積み重ねても、生きたアナログ世界のすき間は埋まらない。アナログ思考は理屈や論理を越えた所にあって一瞬にして物事を悟る。

 原子力発電所ではそのデジタル思考のすき間(想定外)は絶対に許されない。原発推進者は目先の必要に目がくらみ、想像力が欠如するから「万が一」とは思わない。彼らは禁断の実に手をつけた。