| これは幻というか、砂上の楼閣というか。すぐには喜べない話です。 |
| ハイサーイ!私の徒然草 | 小春日和の韓国語のお勉強 |
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これは幻というか、砂上の楼閣というか。すぐには喜べない話です。 今朝の朝日新聞によれば、今、唐津市と言えばイカ料理で有名である。しかし、かつてアジやサバの西日本一の水揚げを誇った。その水産業のてこ入れのため、九州大学と唐津市が協定を締結して、「唐津市水産業活性化支援センター(仮称)」を建設し、九大の研究者4人が常駐して、トラフグなどの高級魚の養殖技術の開発と産業化に取り組むというもの。 今、玄海原発の点検中の原子炉の運転再開問題で、一度事故が起きれば、地元住民はもちろん、偏西風によって被害は日本全国に及ぶに違いない。原発運転再開容認の決定に当たっては、町長は地元の住民にさえ全く説明していないままだったという。福島原発の大事故の後だけに住民の不安は大きかったはずである。許されることではない。 それでこの唐津市と九州大学の協定の記事の見出しが気になった。九州大学が福岡市東区箱崎から福岡市西区桑原に移転した。唐津湾の西の半島に玄海原発、東の糸島半島の高台に九州大学があって至近(36キロメートル)である。 私は以前から不思議に思っていた。昔、60年安保闘争時代にはジグザクデモや抗議集会など学生運動には加わっていた。当時の学生だったら、今回の玄海原発問題では機動隊と衝突するような激しいデモや抗議集会をくり返したに違いない。また、韓国の学生や韓国民だったら半世紀昔の日本のように、激しい抗議行動になったに違いない。 こんな危険な状況にありながら、学生が動いたという話は聞かない。大学が動いたという話も伝わって来ない。権力や大きなものにはなされるがままという感じである。それでいいのですかという気持でいた。 これはまさに多くの人々が、健康保険も年金も自己責任の非正規雇用で徹底的に搾取され、使い捨てられ、正社員でさえも低賃金で無定量にこき使われているのが現状だ。昔は工場の機械化で人減らしをし、今ではコンピュータ化で人減らしをし、雇用が限られてきたこともある。 人が生きていく上で必須でもない物をまことしやかに売りつける才能のある人しか生き残れない。結婚式でも葬式でも見栄心をくすぐって必要でもないオプションをどんどんつけさせて稼ぐしかない。携帯だって、コンピュータだってそうでしょう。どんどんモデル・チェンジして、余計な機能を盛りだくさんにつけて、お金のある人には余計なお金を使わせる。そういう仕事を開拓しなくてはやっていけない時代である。 かつて高度経済成長期に日本国民総中流と言われて眠りこけているあいだに、団結することを忘れ、闘うことを忘れ、いつの間にか、労働組合も御用組合ばかりになってしまった。立場の弱い者どうしは団結しなくては巨大組織に勝てるはずがないのに、闘う組織が壊滅し、個人が分断されてしまったことにある。 そういう背景があって、今、唐津市が水産業の振興を目指すこの取り組みが進められているわけで、原子力発電所事故一発で全てが破綻してしまう可能性は否定できない。このままプルサーマルと老朽化がはっきりしている玄海原発が運転を続けていく限り安全は絶対的には保証されない。 ところが、記事の本文に目を通して言葉を失った。 この総事業費が12億1,400万円だという。そんなお金こんな小さな自治体でどうやって準備するのかしらと思った。次ぎを読んでますます心配になった。その財源が九州電力玄海原子力発電所3号機のプルサーマル発電実施に伴って佐賀県から配分を受けた核燃料サイクル補助金を当てると書いてある。 水産資源の減少、韓国や中国との漁獲競争が背景にあるとはいえ、原発マネーにだけは手をつけるべきではなかったのではないか。じゃあ唐津市の水産業はどうする。目の前に原発マネーがなければ他のことを考えたに違いないが、目の前にお金がぶら下がっている。つい当てにしてしまう。一度お金の味をしめると、もう原発なしの生活は想像できなくなってしまう。お金の魔力である。お金は人の思考を停止させてしまう。今更昔には戻りたくない。戻れない。 最初原発を受け入れた時の事情は、おそらく電力会社、国、原発企業総掛かりで莫大な原発マネーを投入して作られた環境の中で、安全神話で洗脳され、雇用と交付金を目の前にちらつかせて、豊かな生活を演出されて、ついに原発に心を許してしまった。魔が差したというべきか。 受け入れてから今になって、福島原発を目の当たりにした。仮にここ当分の間事故に遭わなかったとしても、子々孫々まで地獄と背中合わせの豊かさにおびえながら生きていかなくてはならない。一度毒喰わば、皿まで喰い尽くすか、強い意志で原発地獄から抜け出すかしかない。 東京大学ばかりかと思っていたら、九州大学よ、お前もかという気持である。国立大学が法人になって、自分で稼げということになれば、お金のかかる理系はとくに、産学協同にならざるを得ない。本来ならば、大学独自で応用範囲の広い基礎研究で特許を取って研究費を作るのはいいと思うが、産学協同はやめてほしい。 研究が企業のひも付きにならないようにして、大学の研究機関としての独立性を維持してもらいたいものである。それから原発マネーの裏には原発というクリーンでないばかりか、危険きわまりないお化けが張り付いているようなお金にはかかわるべきではない。 私の学生時代に産学協同という言葉を聞くようになった。私は国立大学が産学協同をはじめれば、大学が大学でなくなるという危機感を持っていた。協同ともなれば当然企業から研究費が出るから、大学研究室は企業のご用聞きにならざるをえない。今回の原発がいい例である。御用学者になってしまえば、危ないと思っても危ないとは言えなくなる。 小学生でも中・高校生でも、少なくとも勉強に関する限り、競争によって沢山の子どもたちがみすみすその才能や個性を潰されていき、外目にはうまくいった子は試験で点数をとるのはすばらしく上手になる。しかしその結果、高学力、高学歴で、尚且つ使い物にならない人間ばかり作り出してきた。 似非学力競争に強く、使い物にならない勝ち組が、日本社会の様々な分野の上層部を占めることによって、この国がどんどん劣化、凋落し、迷走する姿を目の当たりにするようになって久しい。小泉時代も例外ではない。その前から迷走ははじまっていて、10年もそれ以上もこの国には政治空白同然である。 大学は大学を大学でなくする原発マネーには関わらないことです。しかし、情けない。お金がないばかりに。そう思います。 |