| 私の幼児期から持病の気管支喘息が治るまでの経過 |
| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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喘息発作の苦しかった記憶は薄れてしまった。30年ほど前に九州大学医学部付属病院心療内科の吾郷晋浩先生の治療によって私の長年の持病だった喘息が治ったとき、「気管支喘息が治った経過をまとめてみないか」とすすめられた。 しかしその時は考えがまとまらなかった。いずれ近い将来に報告したいとずっと考えていた。そこで私のホームページ開設を機会に報告することにした。 〔幼児期〕 何歳だったか記憶にないが、今から60年近くも昔、太平洋戦争中のことです。母は私の激しい呼吸困難で私の呼吸が止まるのではないかと心配したといった。私自身は苦しかった記憶はない。九州大学病院で診察を受けたとき、特異体質だが大きくなれば治るといわれた。今でいうアレルギー体質です。 〔小学校〕 昭和25〜26年(1950〜1年)小学校5〜6年生の頃、母方の祖母に連れられて下関の祖母の妹の家に行った。下関市内を祖母と歩いているとき、何が気に入らなかったのか、私が腹を立てて1人でどんどん歩いて行った。祖母は「ちょっとお待ち!」と言って追ってきた。その夜、激しい呼吸困難に襲われた。偶然祖母の妹も喘息持ちだった。エフェドリン1錠の半分を飲ませてくれた。発作はウソのように消えた。これが喘息発作の最初の記憶です。 〔中学校〕 中学の修学旅行のとき、林田温泉の宿で発作が起きた。喘息発作が何かの出来事と重なったときは覚えているが、それ以外の発作のひとつひとつは記憶にない。年に何回かの頻度で起きていたように思う。エフェドリンを服用すると口の中が粘っこくなり不快だった。そのうちエフェドリンが効かなくなった。体質改善のために毎日漢方の煎じ薬を母が作ってくれた。 近くの内科医院に駆け込んで、たしか薬はアミノフィリンという名前が記憶に残ってい。注射がよく効いた。しかしそれもやがて効かなくなった。薬も飲まず病院にも行かなくなった。我慢する以外になかった。 〔高 校〕 季節の変わり目とか、修学旅行先でとか、生活環境が変わったときには決まって喘息発作が起きた。夜、発作が起きると横になると苦しいから椅子にもたれかかったり、積み重ねた布団に寄り掛かってじっと朝を待った。昼間はいくらか軽くはなるが、歩くと苦しかった。呼吸困難に喘ぎながら学校行くこともあったし、学校を休まなくてはならないこともあった。 アレルギー性鼻炎に苦しんだ時期があった。特に夜になるとくしゃみや鼻水が止めどもなく流れ、鼻づまりがひどくて一晩中眠れず、口で呼吸しなくてはならないのがつらかった。当時、200円もって近くの耳鼻科に鼻の洗浄と注射に通った。あまり効果はなかったと思う。効果がないから毎日通院いなくてはならない。当時は健康保険制度はなかった。 私が高校2年生だった1958年の春休みに京都と奈良に修学旅行に行った。担任は厳しい人で私はあまり好きではなかった。担任は旅行中ずっと不機嫌だった。私はこんな不愉快な旅行なら来なければよかったと内心腹を立てていた。この旅行でも発作が起きた。とにかく高校2年生のときの記憶がほとんど残っていない。昔のことなので、そういつまでも腹を立てているというわけでもなかったのだが、卒業後も当時の担任をどこかで見かけても何となく避けた。 勉強はほとんどしなかった。夏休み前にヨット部に入った。進学校で勉強しないのだから成績は一度クラスでびりになった。そこまで落ちても、ものすごい集中力と、熱い意欲さえあれば何とかなるものだ。こつこつやるのは私の性に合わない。 高校3年生の秋、体育祭がすんでから、何とかしたいという一念で夜もろくに寝ないほど頑張った。冬休みに身体がダウンして受験勉強を投げ出した。しかし、投げ出してから今までの努力の効果が表れ、光が見えてきた。頑張っている間は喘息発作は起きていない。目的は達した。 〔大学/佐賀県の学校に勤務するようになって〕 学生の頃は山林実習でひどく疲れて発作が起きたことがあった。その後はそれほどひどい喘息に見舞われたことはなかった。風邪をひくと必ずのどをやられて、ぜーぜーいって気管支炎がひどくなり感染症を起こして発熱し寝込んだ。 卒業すると、隣の県の県立高校に赴任して7年間勤務した。はじめは福岡県に帰るつもりはなかったけれども、心境の変化と母子家庭の1人っ子だった事情もあって、福岡に帰らなくてはならないと思うようになった。 〔転勤と上司との軋轢〕 県間の転勤は難しい。1969年、30才のとき、教員採用試験を受けて福岡市内の高校に転勤できた。しかし新しい学校の様子がわかってくるにつれて、このままここに居続けたら教師生命を失うようなことになりかねないという危険を感じた。職場の雰囲気にどっぷりつかってしまえば居心地がいいといえばいいのだが、どうしても許せない。 普通、採用試験に合格しても福岡市内の学校に転勤するのは難しい。この学校に呼んでいただいたことには感謝していた。しかし主任は自分の雇い人扱い(古い体質)するから、次第に私と主任との間の葛藤が強まった。 1972年の6月に入ってすぐ喘息発作が起きた。近くの医院で治療を受けても治らず、7月初め頃まで発作を繰り返し、何度も欠勤せざるをえなかった。こんなに長引いたのは初めてだった。発作がはじまる前段階の時期には、きまって、著しい体調の崩れを感じた。 当時はバイクで通勤していたので風の当たり過ぎで疲れ、梅雨時のあの不快さ、自宅に帰ればクーラーの冷気が重なった結果だろうと考えていた。 更に9月半ばに急激な冷え込みがあった。激しいクシャミと鼻水がでて、軽い喘息発作が起きた。このときは注射で3日ほどで治った。しかし、その年の発作は繰り返し繰り返しやって来た。だんだんひどくなる予感がした。学生時代から心理学関係の本は随分読んでいたので、心身症についてはある程度は知っていた。 心療内科で相談してみようかと思った。しかしその年は、心身症なんて、まさか、と思っていた。今でこそ心療内科はよく知られているが、当時は心療内科はそれほど一般化していたわけではなかったから気軽に行けるところではなかった。 翌1973年の梅雨は空梅雨で体調を崩すことはなかった。しかし9月初めの急な冷え込みで発作が起きた。今回は近くの内科で治療を受けても治らなかった。発作は軽くなったり、重くなったりしながら治る気配はなかった。 私の喘息の原因として残る最後のひとつは心身症だけだった。心療内科で治る可能性もある。いちばん症状がひどくなった9月18日の朝九州大学病院に行った。時間ぎりぎりだったので思わず走り出していた。診察のときの発作の程度は家を出たと きの半分くらいに軽くなっていた。 このとき吾郷先生は誰の勧めでここに来たのかとたずねられた。当時心療内科はほとんど知られてはいなかったから、自分で思いついて訪れる人は少なかったと思う。 自分の性格特徴を思いつくままにメモすることからはじまった。その結果私の喘息は心身症の可能性が高いということがわかった。とりあえず目の前の発作を鎮めるために錠剤と吸入薬もらって、検査や減感作治療も受けた。やがて発作は軽くなっていった。以後カウンセリングによって、ストレスと自律神経系、ホルモン系のバランスが崩れる仕組みを知った。 喘息発作が終息するのは早かった。しかし自信をもって喘息が治ったといえるまでには、発作が起きないという事実の積み重ねが必要だった。それには数年が必要だった。 平成6年(1994年)54才のときに現住所に引っ越してきた。喘息のことなど忘れていた。近くのクリニックで血液検査の結果を見て、何かアレルギーはないかとたずねられた。私のアレルギー体質は幼少時から変わってはいなかった。しかし現在は化学物質や花粉などのアレルゲンが体内に入ってこようと、季節の変わり目であろうと喘息発作が起きることはない。 もともとアレルギー体質でなければ、アレルゲンが体内に入ってこようと、少々ストレスがあろうと発作は起きない。強いアレルギー体質ならば、ストレスがあろうとなかろうとアレルゲンが体内に入っただけで喘息発作を起こす。その中間には、アレルゲンが体内に入ってきただけでは発作が起きないけれども、慢性的な精神的ストレス状態のときにアレルゲンが入ってくれば喘息発作を起こす。 最後のケースは心の生活習慣病と言えると思うのです。精神的生活習慣を改善すれば喘息発作が起きなくなると思います。私の場合、その後は風邪をひいてのどが痛くなることはあっても、気管支炎になることはなくなった。それにかつてのように風邪をひかなくなった。 カウンセリング無しに、その場しのぎの対症療法しかなされていないという場合が多いのではないか。心の生活習慣の改善で喘息が治るはずの人までが、延々と薬漬けになっているとすれば、こんな不幸なことはない。 【関連ページ】 |