| 【ハイサーイ!私の徒然草】 | 幼児期に一流意識を育てる |
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人は経験のない世界は想像すらできない。人は自由に考え行動しているようでも心の深層にある人生早期の記憶から逃れることは難しい。子供の人生観は家庭から始まって学校、職場など偶然の出会いによって形成されていく。 しかし現代のような情報社会ではテレビの中の出来事も、その他あらゆる経験も幼い子どもには、大人の何十倍何百倍の速度で、理屈ぬきに、確実に刷り込まれていく。親がいつもどういう内容のテレビを見ているかは決定的である。バラエティ番組ばかり見ているのか、暗い事件のニュースばかり見ているか、いろいろである。幼い頃に刷り込まれた記憶は意識の下から一生その人の思考や行動を支配する。 どんな音楽や歌に馴染んで来たか、どんな物語が心に残ったか。どんな人に出会って印象に残ったか。白紙に近い子どものために人生観や自己像の形成に相応しい環境を意識的に準備してやる必要がある。子どもがまともに日本語も話せないうちから親の願望だけで外国語を聞かせたり習わせたりするよりは、親自身が外国語を話せるようになりたいという熱い気持に目覚めることである。音楽であれ、絵であれ、文学であれ、人であれ、本物に出会わせる事である。親自身が本物を知らなければ、それ以上のことは無理である。 現代では学校の近くに住むことがいいかどうかはわからないが、孟母三遷の教えは昔も今も真理である。少なくとも3歳まで母親と共に生活したか、祖父母に預けられたか、保育園に預けられたかではまるで別の脳細胞のネットワークが形成されるのではないかという気がする。子どもが経験する内容がまるで違うからである。これは愛情の問題とは別である。 人が後に自分とは違った世界があることに気がついたとしても、すでに意識下に染みついた人生観の範囲でしか世界を見ない。人生とはこういうものだと思ってそのまま現在の生活に埋没してしまうか、せいぜい井の外に出ようとする空しいあがきに終わる。 偶々、1匹の蛙が思いがけない経験をしても、すぐに意識はもとの井戸の世界に戻ってしまうか。もともとその新しい経験を受入れる素地があったとすれば、新しい経験によって心の世界が広がっていくし、素地が準備されていなければ、その新しい出来事に何も感じず、何も変わりはしない。 目の前に新しい世界が開けていても、いい話を聞いても、それまでに作り上げてきた自分の人生観に合わなければ、心そこにあらず。見れども見えず、聞けども聞こえず、感動することもない。 感受性がみずみずしければ感動も多い。感受性は暦の上の年令とは関係はない。心の深層に自分をがんじがらめに縛るものがあれば、心の伸びやかさは失われる。気持が熱くならない。本当の自分自身を生きるということがない。度の過ぎた「…ねばならない」思考、義務感、心配性などもそのひとつである。 何歳になっても新しい経験を吸収する柔軟さが残っていれば、いつでも新しい目を開くことができる。先入観や過去に原因のある感情的しがらみが心の深層にある限り住みなれた狭い井戸から出ることはできない。本当の自分を生きることはできない。 思わぬ逆境に出会うこともなく、型破りなほど活発でもなければ、自分自身の今を疑うこともなく、内面的な問題で悩み苦しむこともなければ、人生初期に敷かれた道を大きくそれることもなくひたすら歩き続ける。一時期わき道に迷い込んであらぬ方向に向かったとしても、そのうちふと気がつけばいつの間にか元の道を歩いているにちがいない。感動する人生ではなくても、人に迷惑をかけずに人生を全うできればそれでもよい。しかし向上心が薄ければ、凋落の一途である。 テレビの中の人間や読み聞かせてもらった物語の世界の人物、伝記の中の人物まで含めて、幼少時に出会った人々のイメージが脳裏に焼き付いて、人間とはこういうもの、人生とはこういうものという固定観念が形成される。それを塗り替えるほどの劇的な出会いや経験がないかぎり、固定観念が人生を支配していく。心ここになければ、見れども見えず、聞けども聞こえずである。 どんなにいい出会いであっても、経験であっても、どんなにいい話を聞いても過去の経験と馴染まなければ、心はそこになく感動することもなければ成長することもない。それは老化である。老いは暦の年令とは関係ない。 たがいに似たりよったりの人たちと群れていれば、それは楽しいかもしれないが、堂々めぐりをするだけで、新しい世界に目が開けることはない。芸術であれ、文学であれ、人であれ本物と出会うことの大切さがある。自分よりすぐれた人物に出会う必要がある。すぐれたというのはお勉強ができるとかそういったことではない。しかし何が価値があり何がつまらないかは自分の人生観でしか判断しないかぎり、新しい展開はない。 成長の条件は、「温故知新」と「異文化は姿見」という二つのキーワードが大切だと思うのです。温故知新というのは、年令を重ねなければわからないことが世の中にはあるという風に考える謙虚さもその要素の一つである。今しか知らなくては、その今も、これから先も見えるはずがない。視点のレベルアップが必要なのです。親自身がいかに若いうちにそこに気がつくかが、子育てのカギである。 最初から井の外にはもっと広く深い世界があることなど考えもしない蛙が狭い井から出ることなどありえない。せいぜい狭い井の中で面白おかしく終わるまでである。 |