三つ子の魂と井の中の蛙

Mon.Mar.12.2007

 以前、バカの壁という本が出た。三つ子の魂といい、このバカの壁といい、蛙は池にいるものと思っていたので、井戸の中に蛙がいるのかどうかは知らないが、この井戸の壁といい、人は心の中に幾重にも壁をもっていて、この壁を取り除いて、心の世界を広げることが、成長ではないかという気がする。


【ハイサーイ!私の徒然草】 幼児期に一流意識を育てる

私の三つ子の魂は現在に至るまで根強く私の深層にある。この三つ子の魂によって私は支えられてきた。

私が生まれる以前に父は亡くなっていて、父が失った先妻の子である二十歳も年の違う兄がいた。

兄と過ごした期間は短かった。兄は昭和18年に医学部を卒業すると、軍隊に入隊し、東京の牛込にある軍医学校に派遣され、軍医になった。

昭和18年の12月には、福岡の実家に戻る暇も無く、満州の牡丹江に渡った。そして、19年4月にはグアム島で戦死した。

兄と過ごした期間は3年余である。兄の記憶は4場面か5場面が残っているだけである。

しかし不思議なことに、意識の中の兄の存在はとても大きいのです。母の話、兄の古手紙、遺品、写真の影響である。

そのような経験、兄の机や本棚や書籍、様々なものが残った環境やその雰囲気は、私の大脳の脳細胞のネットワークの中に記録として残っている。

ちょうど私が2歳になったときに太平洋戦争が始まり、その後空襲、町内の防火訓練、B29来襲時の灯火管制や防空ごうへの避難、食べるものがなかったこと。

機銃の薬きょうや弾がコンクリートの上に落ちてきて、からんからんと音がする。

佐賀県の三間坂というところにある山寺への1週間ほどの疎開。

母は特別私をどう育てようかなどそんなに教育教育ということはなかった。2歳までは平和な暮らしだった。しかし3歳以後は空襲と食料難に振り回された生活だった。

母方の祖父母との幸せな記憶。

種子島から九大の学生が下宿させてくれと、初めてわが家に訪ねてきたとき、私を見て微笑みかけてくれたあの笑顔は今でも記憶に残っている。次にはその弟さん、おじさんまでが下宿した。

種子島からの土産。終戦の年たずねた種子島の思い出。なつかしいことばかりである。

私の三つ子の環境はそのようなものだった。戦時中の話です。

これらが合わさって、私の三つ子の魂を形成した。母子二人きりの閉ざされた環境ではなかった。いろいろな人の影響を受けてきた。

私の一族が代々の医者というよりは、むしろ医学者の家系であるということは雰囲気として何となく伝わったのみである。

隣家に父方の祖母と伯母がいたのに、その記憶は数場面しかない。もう少し成長すると、伯母が一族の話を繰り返し幼い私にしてくれた。これは三つ子の魂として定着した。

しかし、環境的には東区の下町だから、一流大学を卒業して、一流会社に就職して、官僚になってなどという人が住んでいる環境ではなかった。

中学生頃までは、私にはそのような人生など考えもしなかった。そのような世界があるとは想像もしなかった。これはやはりそういう井戸の中に住んでいたからである。

わが家のような医学者の家系というのは、周囲とはまるで違った存在だった。

たまたま父がこの場所に家を建てていたから、父の死後病院を他の人に貸して、ここに移り住んだだけのことである。

大学といえば、私の意識にあったのはすぐ近くの九州大学医学部である。しかし父も兄もなく、後を継ぐ必要もなく、漠然と進路をきめて行くうちに、

小学校2年生(8歳)の頃に遭遇した感動的な出来事が、知らず知らずのうちに、自分をそのような方向に向かわせ、学校では全く違うことを勉強していたのに、高校物理の教師になってしまった。

八つ子の魂が支配して、中途半端な、妥協の産物のような進路選択になってしまった。

その時は無意識のうちの選択だったけれども、高校物理の教師になった動機の源は、間違いなく8歳の時のあの出来事にある。

母はおおらかタイプではなかった。心配性だった。世間的なことには疎い人だった。気働きのする人ではなかった。

4人兄弟姉妹の長女だったから真面目さに縛られ、おとなしく、控えめで遠慮ばかりする人だった。下の伯母とは正反対の性格だった。

母を一言で言えば、「きれい好き」だった。食器洗いでも洗濯でも、徹底的に洗う人だった。アライグマというあだ名がぴったりである。電気洗濯機や食洗機などありません。すべて手洗いです。

私にその性格は乗り移った。その呪縛から離脱するには時間がかかった。離脱に役立ったのは学生時代から心理学に関心をもち、自分の内面を見つめ探求し続けたことにある。

あのひどい気管支喘息が完治した30歳代半ばに過去とふっ切れた。それでも繊細、慎重、心配性、そして強迫観念症的な性格傾向の痕跡は依然としてある。

度の過ぎた「…ねばならない」思考の呪縛がある限り、解放された本当の自分自身をを生きることはできない。

私が高校時代にヨット部に入ると、危ないからやめろといった。一人息子に事故で死なれてはたまらない気持はわかる。

和裁の師範の資格をもっていたから、デパートや商店の和服の仕事がいつもあった。仕事が丁寧だから注文が多かった。

夜遅くまで私はじっと黙って正座して母の針仕事を見ていることが多かった。

躾けはほとんどしていないが、母の姿をみて育った。母は勉強のことは、私が大学を卒業するまで一言も言わなかった。

一言くらい、医学部に行けと、さりげなくでも、言ってくれていれば、すれすれの線で臆病になっていたときに、挑戦を選んだかもしれなかった。

安全の農学部を選んで逃げてしまったが、仙台の伯父はがっかりし、大学に残らずに教師になったときも、伯父はがっかりした様子だった。

しかし九州大学の医学部に入れなければ、妥協してまで医者にならなかったことだけは断言できる。それは心の故郷だから。

学生の頃、精神分析や、森田神経質や、性格や、カウンセリングや、催眠や、心身相関についての心理学の本を沢山読んでいたから、

医者になるなら精神科の医者だね。それだったら教師だって似たようなものじゃないかなどと考えていた。

しかし、現代は、自分で変だと気がついて何とかしようという状況ではないから、とても教師の手に負える状況ではない。

佐賀県の高校に赴任するときも、母は何も言わなかったし、私は、母ひとり福岡に残して先々どうするのかなど考えもしなかった。

福岡に帰らなくては、と思うようになったのは、30歳近くなってからである。

しかし、こういう条件の中で、私なりに壁は破って新しい視野を広げてきたものだとは実感する。

それには、小さいときから、いろいろな人が周囲にいて、学校に上がれば先輩が、先生が、教師になってからも、佐賀の下宿のご家族が、職場の先輩が、私の欠陥を矯正してくれた。

それは、「温故知新」と「異文化は姿見」というこの二つが視野を広げるキーワードなのです。

似たような仲間とばかり群れていれば、楽しいかもしれないが、新しい目が開けることはないような気がする。温故知新にはならないからです。