しあわせの3つの鍵

Tu.Apri.06.2010

しあわせは自分自身の内面にある。内面的な成長がなければしあわせはない。しあわせの鍵は三つ子の魂と小学校低学年までと思春期にあると思う


[ハイサーイ!私の徒然草]

 内面的な成長をしているという実感こそが幸せ。自分のことしか考えず、心からの感謝の気持がなければ幸せではない。人との比較と競争では幸せにはならない。知識や情報、物やお金、社会的地位を追いかけての努力はそれだけでは人を不幸にする。

 柳田邦男氏も「言葉の力、生きる力」(新潮文庫)の中で「人はだいたい5、6歳の頃、遅くとも7、8歳の頃に、何かに強く感動したり、心を惹かれたりする経験をすると、それが原型となって、右脳の中にどういうものに感じやすくなるかのレセプターが形成されるのではないか」と書いておられる。

 これは経験のある人には絶対にそうだとわかる。私も「電気蓄音機/でんちく」というページで10年ほど前にそのことを書いている。小学校2年生のときのあの出来事が私の将来をナビゲートしていたことははっきりしている。

 現役を退いたとき、孫と過ごすのも幸せ。孫と過ごすのが「唯一の楽しみ」というわけではないけれども、おじいちゃん、おばあちゃんにとっては孫と過ごすときは、生き生きとした心にふれる喜びがある。人間は何歳になってもこういう心を失いたくないものだという気持になるしあわせ。この子がこのまま成長していけばすばらしい人生になる。物知りがさもいいことだと思っているような大人が余計なことをすればすべてが消え失せる。

 おじいちゃん、おばあちゃんの先は見えている。しかし孫の人生はこれから始まる。孫にとっておじいちゃん、おばあちゃんにかわいがられた記憶は一生消えない。三つ子の魂の中に焼きついて、これから先の人生で、大きな心の支えになる。

 子供は周囲が意図して育つものではない。意図的に教育に励めば励むほど結果は逆になる。無い袖は振れない。人は自分のありのままの姿でしか子を育てることはできない。頑張ればいいというものではない。精進第一にすれば結果は間違いなく悪になる。

 親自身が勉強の喜びを知らずして、子に勉強の喜びを教えることは無理である。教えて教えられることと教えられないことがある。第一この「勉強」「学ぶ」という言葉からして大嫌いである。適当な言葉がないから仕方なく使っているだけである。

 教えて教えられることは高が知れている。子どもの吸収力は教えられるものではなくて、周囲の大人がが邪魔しなければ、子どもは自ら走り出すものである。そして走り出した子どもに与えうるのは「ヒント」だけである。

 人は完全ではない。親の不完全を補うまず第一の人は、おじいちゃん、おばあちゃんである。孫は「素朴な愛情」を記憶する。

 そういう意味で、おじいちゃん、おばあちゃんの愛情を知っている子と、知らない子では、心持が微妙に違う。子を心豊かに育てようと思うなら、おじいちゃん、おばあちゃんを活用しない手は無い。親自身がおじいちゃん、おばあちゃんの味を知らなければ、子の心の成長の大きな鍵がおじいちゃん、おばあちゃんにあるにあることを知るべき。

 人を信用せず自分で子を囲い込めば心は貧しくなる。おじいちゃんおばあちゃんに子を頻繁に会わせるのは、おじいちゃんおばあちゃんのためだと思うのは大きな心得違い。まさに将来のあるわが子のためである。

 その人が本当の人生を生きるかどうかは三つ子の魂にある。三つ子の魂が自動的に走り出せば、大人が余計なことをしなければ、とまらない。

 ただ、13歳くらいになると、親子の人生観の衝突がある。していいこととしてはいけないことをめぐって葛藤が起きる。そのとき壁となって子と闘うのが親の役割である。子が言うとおり、いいよいいよと物分りのいい親では葛藤は起きない。子は精神的に成長せず、一生精神年齢13歳のままである。子を叱れない親の罪である。

 人の人生を決定的にする鍵は小学校の低学年のころにある。取るに足りない出来事であるにもかかわらず、子どもに強い興味を惹起する瞬間というのがある。これが根っこになって、10年後20年後の人生を決める鍵になることがある。そのときの強い興味が先々、進路選択のナビゲーターになる。今更自分探しなどしなくても、一番近い目標に向かって自然に導かれていく。

 「小学校低学年ころまでに」そういう出来事に出くわすのは幸運である。しかし、その頃に塾通いや、勉強に追い立てられて、生活が貧弱になっていれば、そういうチャンスに恵まれない可能性が高い。だから先々「自分探し」をしなければ自分のしたいことが見つからない、探しても見つからない。

 これは、ゆとり教育だとか脱ゆとりだとか言うけれども、産業界の要求で年々難しくなっていった詰め込み教育は一番いけない。むしろ、ゆとり教育の方がいい。心にゆとりの無い人間にはゆとり教育はできない。

 心にゆとりの無い人びとは、時間数が減ったから学力が下がったのだという短絡的な発想しかできない。教えて教えられることは高が知れていることを理解しない。学力は自らどんどんつけていくものだという発想を理解しない。

 当時は50人中6人合格という程度の倍率だから、今のように就職難ではなかったけれども、私は就職試験の準備などしたことは無い。面接の練習や、受け答えについてあれこれ心配したことも無い。教員採用試験だって、大学時代に教わってもいない教科で、一次試験でも二次試験でも不合格になったことは無い。いつも自然体である。面接で聞かれたことにそのとき感じたことを語っただけである。