敬老の日

Mon.Sep.15.2008
Wed.May.27.2009(修正)

[ハイサーイ!私の徒然草]

   今日は敬老の日である。

   3年前、自治会役員をしてはじめて、公民館の敬老祝賀会に出席できないお年寄りがこんなにも多いことを知った。

   昼食が出て、子どもたちの余興があって、ご挨拶があって、敬老の日のお祝いをお渡しする。ご出席できなかった方々へのお祝いと記念品を届けるとき心が重かった。

   今日、この敬老の日が形骸化しているのではないかという気がする。現代では本当にお年寄りが大切にされているだろうか。お金の問題や介護施設やそんな問題ばかりではない。心の問題として大切にされているだろうか。

   老後を仕合せに暮らすには「いつもにこにこ、逆らわず、かといって言いなりにもならず」というのがこつだそうである。これはとてもできることではない。子の世話になっていればいいたいこともいえずそうするしかないとすれば、それだけで寿命を縮めてしまう。

   だから私はいつも不思議で仕方がなかった。よく見かける光景である。おじいちゃんもおばあちゃんも、何も言わず、黙って隅の方に静かに座っておいでになる。その胸中を知ることはできない。胸中をたずねる人もいない。

   今、NHKの広島放送局が制作している「百歳バンザイ」という番組がある。私はこの番組は好きである。いろいろな百歳が紹介される。家族がやさしくしあわせに暮らしていて、おじいちゃんおばあちゃんが心配しなくてはならないことは何もない。ここで紹介されるお年寄りはしっかり自分の世界をお持ちである。

   敬老精神は若い世代が“「人生には年を取らなきゃわからないことがあるものだ」という自覚”をもつことにある。

   現実は、経済中心の競争社会では、すべてがお金、物、数字、点数である。それに情報社会たから知識や情報はいくらでも得られる。お年寄りにたずねることなど何もないと思い違いをする。

   お年寄りを大切にするというのは、お年寄りが人生で蓄積してきた知恵を拝借しようという謙虚さがあってこその敬老だと思う。

   物知りであることが然もいいことであると思っていれば、すぐに理屈を言う。そのこと自体がお年寄りを軽んじることにつながる。順送りで誰でもが明日はわが身と心の準備だけはしておくべきである。