| これは太平洋戦争時代を生きて、30年近くも時代の流れから隔離された生活から、突然高度経済成長の日本に帰還して目にしたものは・・、まさにこの言葉こそ現代人に一番必要な言葉だった。今、まさにその通りになっているのではないだろうか。 |
| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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これは太平洋戦争時代を生きて、30年近くも時代の流れから隔離された生活から、突然高度経済成長の日本に帰還して目にしたものは・・、まさにこの言葉こそ現代人に一番必要な言葉だった。今、まさにその通りになっているのではないだろうか。 変わった本をもっているなあと思われるかもしれない。インターネットショップAmazonを通して富山市の太陽堂書店という所から取り寄せた。カバーと表紙はきれいにしているが、中の紙質は上質紙ではない。新古書ですがすでに紫外線で小口は茶色に変色している。昭和59年に出版された時の定価が580円で2008年に買った時は4427円だった。金額だけを見れば高い。 私の石巻市の安田家の先祖のことを書いたノンフィクションの小説、新田次郎氏のすでに絶版になって久しい「アラスカ物語」が安いものは1円とか、300円だとかで、送料が340円。これも出版当時は600円程度だった。30冊ほど買い占めた。だから品薄になって今では2000円とか4000円とかでなくては買えなくなっている。 横井さんは別に私と何の血縁があるわけでもない。しかし、昭和16年にグアム島に日本軍の1兵卒として上陸し、終戦を知らずに昭和47年に発見されるまでグアム島のジャングルの中でサバイバルしてきた方である。 私はこういう方の話や記録は粗末にしてはいけないという気がして、著書が姿を消す前に確保しておきたいと思ったから高くても買った。内容は素朴であるけれどもご本人がお書きになった貴重なものである。 私はここまで生き延びてこられた方の話に何の興味をもない人がいるとすれば到底理解できない。こういう方々の話に耳を傾けようとしない人々には人間的な成長はあり得ないと思う。 私は我が身を振り返ることのない自信家を信用しない。現役の頃にはなかなか見えにくい。控えめな人は煙に巻かれて暗示にかかってしまうかもしれない。しかし、人を見る目のある人にはその薄さはすけすけです。昇進したとしてもたかがしれている。 年齢とともに、物事の本質が見えるようになると、今まで煙に巻かれて、自分が劣等感に苦しんだことがばかばかしくなることがある。 定年退職すればもっとはっきりしてくる。表面的なおつきあいをするには、いい人だから悪く言う理由はない。しかし中身がなければ、話をしてもちっともおもしろくない・・・。 若い頃進学でも就職でも順調だった人からは奇抜な発想は出てこない。ありきたりの話しか出て来ない。しかし、沢山の失敗経験をもつ、必ずしも順調とはいえなかった人と話をすることにこそ意味がある。現役の頃と退職後では何が優秀で何が優秀でないかが逆転する。 自分の仕事や趣味の世界にいくら頑張ったところでそれだけではしあわせではありえない。小さてもいい、社会への無償の貢献に時間と労力を割くことによろこびがある。必要だから必要でないからということではなくて、外国語を勉強したいというのは知的なことです。思春期に自分の内面と向き合い、自分との闘いに苦しむ経験をしたか。いろいろ上げれば限りがない。 自分の内面と向き合い、こうありたいという理想と現実との間でどれだけ苦しんできたか。自分の内面の闘いなくして内面的な成長はありえない。そかし、それは現代ではきわめて難しい。成長の原点は三つ子の魂にあり、成長のきっかけは思春期の頃にある。この時期にちやほやされ、ほめられるばかりでは、自分を見つめる習慣など育つはずがない。親子の激しい葛藤の中でも内面的な成長をする。物わかりのいい親は子をわがままにして手が付けられなくなる。親は子の心の壁になる必要がある。 内面的な成長の機会を失した人は教師という仕事にも医者という仕事にも不向きである。あらゆる人間関係に不向きである。子どものまま年を重ねるということは、精神年齢は13歳のままだから、その自己中心性が年齢とともに人間関係の障害になっていく。受験のために塾漬けになっていたりしていては先々いいことはあるまいと思う。自己中心で人の気持などわかるはずがない。 最近は子にありがとうと言うようにとしつけるが、その親自身は感謝の気持などこれっぽっちももったことはないのではないかと思うことがある。人からどんなに恩を受けても、ありがとうはそのときだけの無意識的なごあいさつであって、当たり前としか思ってはおらず、場面が変われば、それはそれ、これはこれで、どんなに自分のために尽くしてくれた人に対しても、信じられないような言葉が臆面もなく出てくる。自分のことしか考えていないからである。 年長者に意見を求めるということがない。敬意を表するということがない。我が身を振り返って謙虚な気持になるということがない。インターネットからの情報の方が確かだと思っている。情報とは何かがわかっていないからそういうことになる。これでは誰からも信頼はされはしない。 韓国語教室にでも行かない限り、私の身の回りには外国語を勉強しようという人が一人もいない。父方の一族は国際派なのに。言葉に興味を持つということは自分を見つめるプロセスだから、熱意が長続きするというのはある意味で希少価値なのかもしれない。 |