一流であることと優秀であること

 人は安っぽいお勉強をして物知りになることと、精神的に成長することとは別問題である。あれも知ってます、これも知ってます、知っていることが然もいいことででもあるかのように錯覚し、年の30歳になっても40歳になってもそのようなえせ勉強に固執しているようでは、成長どころか幼稚化するだけである。
Thu.Aug.19.2010

ハイサーイ!私の徒然草

 井深大氏は「0歳からの母親作戦」の中で76項目にわたって書いておられる中のひとつに、「幼児期に“一流意識”を植えつけておけば、“一流の人物”に育つ」と書いておられる。

 我が子に優秀であって欲しいと願う親は多くても、一流であって欲しいと思う人はどのくらいいるのだろうか。優秀でもない親が子に勉強のことで構えば、子を勉強嫌いにする。一流意識のない親が子に一流意識を持たせることができるだろうか。

 一流意識と「気位」とは関係がある。誰だって「我(が)」はある。「我」が即気位でも一流意識でもない。「我」は人を一流にもし、二流にも三流にもする。使い方次第である。

 お勉強ができるとかいい学校を卒業したとか、いい職業についているとか、そんなことがプライドになっているのであれば、それは差別意識以外の何物でもない。そんな似非プライドは二束三文である。

 一流意識とか、気位だとか、突き詰めていけば、それは「育ち」に由来する。「育ち」は遺伝ではないけれども、遺伝みたいに親から子、子から孫へと伝わっていく間にどんどんそのレベルは低下していく。三つ子の魂に関わることだから特に母親の精神的な「育ち」が重要である。

 「学力とは何か」と深く考えたこともなく、学校の成績がいいことだというくらいの意識しかなければ、自分の子がお勉強ができなくなるのではないかと不安にかられ、親が正気をなくし、一生懸命になった結果、ほぼ間違いなく子は勉強嫌いにしてまう。

 行き過ぎればこれは心理的虐待になっていることすらある。思慮深い父親ならば早い時期に止めに入るのが普通である。しかし父親までもそれを容認しているとすれば父親としての見識はない。こういう場面でこそ父親は存在感を示さなくてはならないはずである。

 本当のお勉強をしてこなかった親ほど子の勉強に構う。本当の人生を生きていない。そうでなければ、勉強のことで子に構うことなどありえない。毎日毎日子に構って、子の心がズタズタになっていることに気づかない。

 一度勉強アレルギーになってしまえば、夏休みの宿題はもちろん、日常の算数のドリルだって、漢字の書き取りだってなんだって自分を生きる心弾む対象ではなくて、苦しいノルマでしかない。子を勉強嫌いにしてしまうのは本当の勉強をしてこなかった親である。

 こういう場合、「一流とはなにか」はおろか、「学力とはなにか」すら分かってはいない。仮に親のやり方に行き過ぎがなく、子が素直に親の言いつけを守り、塾に通って、霞のようなお勉強ができるようになって、いい大学に入って、いい会社に入って、あるいはいい職業に就いて、周囲から優秀という評価を得たとしても、一流であるかどうかとは話は別である。

 優秀というのは形の上のことであり、しかも個人的なことである。会社にどれほど貢献したにせよ、それはまだ個人の域を出ない。優秀なだけであれば、よくて二流、どうかすると三流、四流でしかない。

 おそらくその人生の中で一流とはどういうことか考えたこともないにちがいない。一流であろうはずがない。

 学力とは何か、一流とは何かと深く考えることは、目の前の世界から遠くの世界をイメージできる想像力の問題である。目の前の現実を生きながら、遠くに思いを馳せることができるようになるというのが教育ではないかと思う。小学校から延々高校なり、大学まで教育を受けながらそれが分からないとすれば、今の教育はお金と時間の無駄使いである。

  本の上のお勉強、テレビからの情報、インターネットでのお勉強、こんな情報ばかり頭に詰め込んで、あれも知ってます、これも知ってます、そして理屈ばかり言う人間を大量生産しているのが今の日本の学校教育である。

 現実に何ができるのか。情報とは所詮「ヘチマのたわし」みたいな物である。0と1の羅列で記録・伝達することのできるものを情報(デジタル量)というけれども、こんなのは中身はすかすかのヘチマのたわしである。こんなもので仮に何か世界をイメージしたとしても所詮仮想世界でしかない。蜃気楼のようなものである。

 生きたヘチマを知らない人間がいくらヘチマのたわしを研究したとしても、本当のヘチマのことなど分かりはしない。ある程度生きたヘチマのことを知っている人が、ヘチマに関する情報を手にしてこそ、現実に近い世界をイメージすることができる。年の30、40歳になってまで、机上のお勉強に固着しているのは、思春期に精神的な成長を仕損なった精神年齢13歳の「とっちゃん坊や」である。身体だけ大きくなった13歳である。

 本当の学力とはほど遠い、ましてや一流になどなれようはずがない。「人間としての気位」など何のことやら、精神的に子どもであることを自覚しないかぎり、何を言っても馬耳東風である。猫に小判、豚に真珠、いろいろな諺が当てはまる。

 仮に優秀な人間にはなれなくても、誰でも公平に一流になるチャンスはあると思うのに、精神年齢13歳のままの大人では無理である。