想像力が欠落した時代

Sun.Jul.11.2010

[ハイサーイ!私の徒然草]

 とは言っても説明が難しい。現代人には3つの世界があると思う。ひとつ目は“現実世界”、2つ目は現実世界を高い所から見渡す“想像力の世界”、3つ目は知識や情報で構築される“仮想世界”である。

 2つ目の想像の世界と仮想世界は似ているけれども違う。想像力は現実を広く全体的に把握する力であり、過去・未来を展望する力であり、3つ目の仮想世界は昔からあったのは「頭でっかちの世界」であり、机上のお勉強やインターネットの世界など知識や情報で作り上げた世界であり、その現実離れした世界を現実世界と錯覚した世界である。

 理屈はよく言うけれども現実を知らない。知識で人が成長することはない。幼稚化するだけである。成長したければ知識への執着を捨て去ることである。

 知識を現実世界に当てはめようとするがそんなものは全く役に立たない。帰納は現実の抽象化であり、演繹は抽象化された結論を現実に当てはめて応用しようとすることだが、それだけではほとんど「はずれ」である。

 初めての子育てを、経験者の失敗経験を生かすことなく、インターネットや教育書でするようなものである。

 今の時代、この仮想世界で霞(かすみ)ばかり食って理屈を言う人間が現実世界で仕事をするから世の中が回っていかない。政治家ばかりではなくて社会にあまねく分布している。例えば日本の政治家の人間力のなさである。今から4代前の総理大臣はあの短い期間にたくさんの法律を強行採決で成立させた。

 人間力をそっちのけにして、法律を作れば社会が変わるという単細胞な思考はいかにもお粗末である。使い物にならないどころか、迷惑法というか、混乱を招くだけの法律である。仮想世界で政治をしているに等しい。

 とりわけ教育関係法は机上の空論もいいところだ。例えば、免許更新制度は現場を知っている人間なら最初からできる訳がないことくらいすぐにわかる。行き詰まって政権を投出したのは机上の空論の破綻だった。

 二世世襲総理大臣のあの政権の投げ出し方は前代未聞だったが、その後も国会議員をやめることもなく、政界で大きな顔をしているという恥知らずは、昔の日本人にはおよそ考えられないことである。

 とかく、頭がいい、学歴がいいといわれている人々の大方がこの手合いである。こういう人たちが企業にも政界にも教育界にも、いや、家庭にも、あまねく分布しているから、世の中がおかしくなってしまう。

 学力競争に勝ち抜けば自分の当面の生活は安定するかもしれないが、仮想世界で霞を食ってばかりいては、この国は沈没する。そういう人間の集まる所を「霞ヶ関」という。学力競争で勝ち抜いた人ばかりではない。学力競争に毒されていれば同じことである。教育書やネットという仮想世界の霞で子育てをするからおかしくなる。教育学というのがくせ者である。私は大嫌いである。人間力が欠落すれば何もかもが役立たず。

 今日、ゲゲゲの女房見ていた。貸本漫画を書いていて生活は苦しい。大手の出版社からの仕事が舞い込んだ。もちろん喜んだ。普通の人だったら、こういう場合とにかくこんな大手出版社から仕事をもらえれば、出版社の条件をのんで飛びつくに違いなかった。

 このゲゲゲの主人公は、「宇宙ものを書いてくれ」という出版社の条件を、主人公は自分が書きたい分野とは違うという理由で断った。周囲は、もったいない、なぜ断ったのだろうと不思議がる。こんなケースは至る所に転がっている。

 世の中の大きな流れの中でちょっと立ち止まって高い視点でよく考えてみる。みんなとは違った選択をする。その時はなぜ?と思われることがあっても、自分が本当に好きな道を選択した方が結果的に成功する。目先の損か得か、有利か不利かで物事を決めないのは想像力の問題だと思う。

 必要な仕事なのになかなか引き受け手がない。それなのに、お金にもならないのになぜ引き受けるのと聞かれる。自分の時間と労力のごく一部を割いて、社会にわずかでも貢献しているという満足感にある。無形の報酬に喜びがもてるのも想像力の世界ではないだろうか。(未修正)