| 情報社会とは情報の処理、加工、伝達の技術とシステムの高度化によって、無機物でしかない玉石混交の情報が生き物のようにひとり歩きする社会。 |
| [ハイサーイ!私の徒然草] |
我々の思考や感情、自然現象、社会現象は元々流動する連続した世界である。ヒト以外の動物は動作や鳴き声で情報を伝達し、ヒトは動作、表情だけでなく複雑な言葉を作り出した。さらに文字を発明し、音や映像などの記録方法を発明し、情報技術やシステムの進歩によって現在のような情報社会を作りあげた。 情報技術が高度化してシステムが膨大化すればするほど人は情報に埋没してしまい、情報には根本的な限界があるということを忘れてしまう。情報が生き物のように一人歩きをはじめ玉石混交の情報が横行することになる。情報システムと情報技術は高度化したけれども、情報社会のごく初歩的な部分に大きな落とし穴がある。 「情報化」というのはこの連続した現実の世界を細く区切って、それぞれの部分を抽象し、言葉や文字あるい記号に置き換え、それらを鎖のようにつなぎ合わせ、積み重ね、ちりばめて表すことを意味する。情報そのものには実体もなければ生命もない。情報というのは生の世界の抽象でしかない。それは言葉や記号や数字という網で流れる水を掬(すく)おうとするようなものである。実体である水はこぼれてしまう。情報というのは糸瓜のタワシのようなものである。 情報は生の世界の抽象でしかないから、受け取った情報から情報の源になった世界を復元することは不可能である。情報にははじめから「根本的な限界」がある。送り手の認識は受け手にはそのまま伝わることはありえない。 アナログな世界も一度情報化してしまうと究極としてはコンピュータにしか読めない0と1の羅列になり、あとはコンピュータによって情報は加工され、保存され、伝達される。情報の伝達はシステムのトラブル、人為的な作為がなければ間違いなく伝わる。情報技術者は単にこういった情報の「技術的なプロセス」にかかわっているだけであって決して主役ではない。 情報は人間が流動する生きた世界を抽象して作りだすものである。世界をどう認識するか、それを言葉や数字を連ね積み重ねてどのように情報化するかには上手下手がある。「文章化」というのはまさに情報化である。「文章力」は重要な情報化能力である。文筆家は情報化の達人のひとつである。自分の考えや気持を文章化するとき、まるで文章を書けない人から、後世に残る文筆家までピンからキリである。従って「情報の質そのものが玉石混交」である。 次に、文章らしい文章も読んだことがない情報の受け手が、受け取った情報をどこまで読み取ることができるかという問題がある。糸瓜(へちま)を見たことがない人に糸瓜のタワシを送って、糸瓜とはどんな実だったと思うかたずねても、糸瓜のタワシの繊維をいくら眺めていてもわかるはずがない。 糸瓜のタワシを眺めてあれこれ考えるのは、文面だけを眺めてあれこれ理屈を言うのと同じであって、そんな論理的理解というのはしれたものである。数百年、数千年も昔から文章はその行間を読めとか眼光紙背に徹すなどといわれてきた。糸瓜のタワシの網のすき間の部分を補って読む眼力が必要になってくる。このように「情報の受け手の情報読み取り能力も千差万別」である。 今月の収入がいくらとか、日本の人口が何人増えたとか、もともとデジタルな存在をデジタルな数字で表す場合は簡単である。人が100人いるといえば、誰が見ても100人である。物の重さや土地の広さなどは、もともとはアナログな量であるが、簡単にデジタル化できて、数字で表しても現実的には何の不都合もない。 人の名前だとか、どこそこに何があるとかないとか、言葉や数字と生の素材とが1対1で対応がつく単純な場合も問題はない。しかしその集団が「どういう人々の集りであるか」を説明するのには限界がある。いろいろな説明がありいろいろな解釈が生まれる。それはどうしようもないことである。そのいろいろ考えられることを「どう読むか」は「情報の読み取り能力」にかかっている。 知識つまり情報は生の世界の抽象であり生命も実体もない。そのような情報をいくら集めてもただそれだけでは意味がない。コンピュータの部分品を集めただけではコンピュータにはならないのと同じである。 何かを知っていると言うとき、どの程度理解しているのか、単に語句を知っているだけなのか。学校の試験は極端に言えば、その人の頭の中にある切れ切れの情報の数を集計したに過ぎない。学力試験で試される内容は高が知れている。試験の成績が同じでも、本当の学力はピンからキリである。 知識や情報がつくり出すのは現実離れした仮想世界である。学力試験の成績をアップするための勉強は結果として学力の低下をもたらす。これが情報社会の落とし穴である。実体のない情報を頭に詰め込んだすかすかの鬆(す)だらけの人間ができ上がるだけである。高学歴の鬆だらけの人間が考えることは高が知れている。 |