現代社会は空理空論の世界

Tue.Feb. 12.2002
thu.Jan.03.2011

[ハイサーイ!私の徒然草]


 情報は現実の世界を抽象したものであり、知識や情報におぼれれば、実体のない仮想世界で霞を食って浮世離れする。

 学力競争の中でお勉強に追われ、生活体験の伴わない情報や知識ばかり頭に詰め込んで、あれも知っています、これも知っていますと物知りは増えた。理屈ばかり言うけれども、頭の中は情報や知識という抽象の産物によって浮世離れする。考えていることはことごとに現実世界から浮いている。

 一度立ち止まって情報とは何かと考えてみる。

 情報がそのまま現実世界に当てはまるケースは限られている。それは今ここにりんごがいくつありますとか、私がすぐそちらに伺いますといった単純な情報であり、もう1つは、その計算式はどんなに複雑であったとしても、宇宙船の軌道計算など、科学技術分野の中でも限られた分野。

 アナログな世界、つまり生きて連続的に流動する、連続的に広がる世界のある範囲を切り取って、それをさらに細かく区切ってそれぞれを抽象し、つなぎあわせられたものが情報である。すべて数字の0と1の列で表すことができる。こうしてアナログ世界がデジタル世界に変わる。

 デジタルは隙間だらけである。それも色々である。音楽の世界、画像の世界であれば、限りなく微細に区切って一つ一つを情報化し、つなぎ合わせれば、生の音楽、生の世界と見まがうほどになる。

 しかし、言葉の世界はそうはいかないと思う。世界を微細に区切ってその一つ一つに言葉を対応させることなどできはしない。例えば「赤」といっても色々な赤がある。無限に多くの赤がある。どんなに言葉を尽くしても言いあらわす事は不可能である。

 つまり、情報化は困難であり、情報そのものはいかに大雑把なものであるかがわかる。だから自分が認識したことを人に伝えるには、言葉を選び、言葉を尽くし、表現を考えなくてはならない。

 それでも自分の考えをそっくり伝えることは難しい。受け取る側の情報読解力のちがいや文化のちがいによっても誤解は避けられない。世代の違いは文化の違いであると言ってよい。外国語を日本語に、あるいは日本語を外国語に翻訳する場合、双方の文化がからだで分かっていなければ的確な翻訳もできなければ理解もできない。言葉を覚えるために文化を学ぶというのは、しきたりや、服装、食べ物、お祭り、その他行事など「形」について知るだけでは本質的ではない。

 だからこそ情報社会では、情報化能力と情報を見分ける力と情報読解力が問われる。情報化能力を端的にあらわすのは文章力である。夏目漱石などの優れた文筆家は優れた情報化力の持ち主である。

 さて、そこで、情報という視点から考えた場合、学力競争で身につけた学力とはいったい何でしょうか。本当の学力とはいったい何でしょうか。

 一概に決め付けることはできませんが、一部を除けば、お勉強ができる、いいかどうか知りませんが、世間で言ういい学校を卒業して、いい会社に入って、官庁に入って、活躍している人のうちどれほど多くの人々が仮想世界で霞を食ってきたことか。競争原理が支配した社会ではそうならざるをえない。ちょっと社会の大きな流れから距離を置いて物を考えなくてはならないのではないか。急がば廻れである。

 情報に溺れ物知りは増えたけれども、自分の目で見ることを忘れ、体験から学ぶことを忘れ、仮想世界の霞ばかり喰って空理空論を重ね、この日本を病気にしてしまったのではないか。親もしかり、教師もしかり、政治家もしかりである。