| 【ハイサーイ!私の徒然草】 |
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いったい小学校で英語を教えるというけれども、日本語の「読み」「書き」「考える」能力を考えれば、英語どころではないはずです。 競争原理の支配する経済中心の社会で、学力競争で、心が外にばかり向き、数字、物、お金、知識、情報、理屈の世の中では、まずは内面に関心を向けるところからはじめなくては言葉の教育は無理だと思う。 小学校から授業で英語を教えたら、英語のテープを聞かせれば、英語会話教室に通わせたら、いったい英語が話せるようになるのか。しかも何のために一律にすべての子どもたちに。 言葉に限らず物事の本質は教えて教えられるものではない。日本の教育そのものが大臣が変わるたびに、ころころころころ変わって漂流と混乱をしている現状で何故小学校から英語なのか。 我が子に外国語を話せるようになってもらいたければ、親自身に外国語が話せるようになりたいという強い気持があるか。小学校の先生が英語を教えることができるのか。それになぜ一律に英語なのか。 私は外国語を話せる人にとても魅力を感じる。たどたどしくても、相手の気持を読みながら、意思疎通をはかろうとする姿が魅力的である。相手の心の機微が読めなければ言葉を話すことはできない。魅力の源はその人の「内面性」にある。 日本語だってそうでしょう。言葉を修得する 最近は何人か集まって盛り上がっているように見えても、実は人の話などまるで聞いてはおらず、一方的な言葉の矢が飛び交うだけである。 今までの英語教育は文法という公式にしたがって単語を置換える作業か、せいぜいフレーズ丸暗記でしかない。ひとつひとつの言葉のニュアンス(音・調子・意味・感情などの微細な違い、陰影、濃淡)がわかろうはずがない。 また、その国の文化、社会、政治、経済、ものの考え方感じ方まで身に染み付いて学ぶ必要がある。自国の文化を語ることのできるネイティブから教わらなくては意味がない。付け焼き刃の研修を受けて英語を教えようとすれば英語嫌いを増やすだけである。「小学生の英語くらい・・・」と考えるのは間違いだ。親は子を英語塾に通わせたり、塾のビジネスチャンスを作るだけである。 今の日本には、あの美し日本文化の片鱗も残ってはいない。日本人に残っているのは日本国籍だけではないか。日本人は60年前太平洋戦争敗戦と同時に日本文化を根こそぎにされて、アメリカ民主主義が移植された。これほど従順な国が歴史上あっただろうか。 勢力を持った言語は英語、ロシア語、中国語、アラビア語と沢山あるが、英語が世界をせっけんしている。しかしだからといって、日本人が全員英語の必要はない。もっとアジアの国の言葉や、多様であっていいのではないか。 それよりももっと日本人としてのアイデンティティをしっかりともった方がいいと思うのです。 |