| 〜遠い昔の話です。「学力とは学校の成績ですか」といいたいだけです〜 |
| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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かつて私が勤務していた高校は伝統校だった。小学区制から中学区制になって大学への合格率が低下した。中心部を少し外れると水田や畑が広がり、山があって、海があって、農業と漁業のゆったりとした環境にある。 こういうゆったりとした環境にあるこの高校には学力学力と目の色を変えての身も蓋もない学力競争は似つかわしくない。 しかし、早朝課外授業を生徒全員に課し、2年生から幾つもメニューを作ってクラス分けをする。生徒の進路にあわせて分けるけれども、各教科科目の教員定数の関係があるから、生徒の希望が叶うとは限らない。 文系コースは英語の授業時間数を正気の沙汰かと思うほど増やし、理数系の科目の時間をぎりぎりまで減らす。理系コースではその逆をする。 学校を支配していたのはそういうものの考え方だった。要するに授業時間を増やせば学力がつくという発想である。 文系コースを選ぶ生徒は理数が苦手だから文系コースを選ぶが、必ずしも英語や国語が好きだとか得意というわけではない。ところが極端に増えてしまった、学力学力と目の色を変えて詰め込まれる英語なんて楽しいはずがない。 夏休みも長期間にわたって課外授業を強制的に課した。欠席すれば廊下に座らせたり職員室の床に座らせたり、執拗に指導する。その上課外授業費を徴収する。強制するな。課外授業は外部講師に外注してはどうか。そんな意見が通用するような雰囲気ではなかった。 学区が広いから、地元の生徒はともかく、JRやバス通学の生徒は早朝課外授業は相当に負担になっているはずだった。本人だけでなく、家族にも負担を強いることになる。家族の生活もばらばらになる。ひとりひとり事情が違うのだから強制はよくないと思っていた。 いけないことのもうひとつは、教科によっては正規の授業でもない課外授業で教科書を使って授業を進めたり、課外授業費を徴収していたことである。 教師の立場からすると、正課でもない早朝授業をすると、疲労は正規の授業に影響する。学校でやるときめれば事実上断るわけにはいかない。教師の家庭生活にだって支障が出ていた。普通高校を敬遠して課外を強制しない学校に転勤を希望する教師がいて当然。人権問題です。 ところで、大学と名のつくところへの進学が困難な状況にある中で、1学期ころ私のクラスの生徒が地元の国立大学の物理学科に進学したいと言った。それはいい、この学校から合格すれば、県内有数の進学校から合格したのとは値打が違うと私が言った。彼は僕もそう思いますと言った。 秋も押しつまったころ、京都大学の理学部物理学科を受験したいと言った。すべり止めが東京大学理Ⅰの後期試験である。京都大学は不合格だったものの東大には合格した。 ところでこの生徒は高校受験では進学校に合格できる成績ではなかった。私のクラスで成績が一番だった訳でもなかった。しかし考えていることが他の生徒とは根本的に違うことは知れた。ゆったりしていた。塾漬けの経験もない。 大学受験も近づいた秋、私は夜8時、9時までは他の生徒の物理の勉強会をしていた。ひょっこり彼が教室に現れたので、帰って勉強しなくては時間がないのでは?と普通は考える。しかし同級生の勉強を見てやっていた。 ある時は、理科室に上がってきて書棚の大学レベルの物理学の本を見て、これ借りて帰っていいですかといって5,6冊もって帰った。東京に発つ前に返しに来た。実家は玄海灘の波打ち際ののどかなところにあり、塾漬けにするような家庭環境ではなかった。 模擬試験は途中で答案提出させてはいけないということになっていた。100分も時間があるのに、彼は30分くらいで答案は書き上げていた。無駄に時間を潰すことはない、帰りなさいと、帰そうとしたが、いえ規則ですからといって時間1杯いた。別に時間を持て余している風でもなかった。家に帰らなくても、本がなくても考え事をしている様子だった。 私はこういう生徒に久々に出会った。学習塾に通うのが当たり前になっていれば、大学と名のつくところにほとんど合格できないような状況の中で、こういうことが起きるなんて、およそ理解できないことかもしれない。塾に通わなければ学力がつかないという固定観念は捨てるべきだと思う。 試験の点数は取れるかもしれないが、特訓でついた学力なんて高が知れていると思うのです。 |