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生きていく上で知っていなくてはならないことは沢山ある。しかし私が一番嫌いなのはおよそ自分の生活経験からかけ離れた物知りと知識や情報の過信である。 例えば、へちまを見たことも育てたこともなくて、へちまを本やインターネットでどんなに研究してもへちまのことはわからない。へちまのたわしの断片を見てもそれが何なのかはわからない。へちまを育てた経験があれば、へちまのたわしの小さな切れ端を見た時、生きたへちまの姿が彷彿とするる。 子どもを育てたことがない人が子育ての本を読む。教育書を読む。教育学書を読んでうまくいくかどうかを考えてみることには意味がある。書かれていることからは、その人の経験以上のことは読み取ることはできない。知識があったばかりに、教育書を過信したばかりに子の教育を誤る。一番肝心な事は何ひとつ教えてはくれない。経験者でなくてはわからない。 知識や情報とはへちまのたわしみたいなものである。生命は何もない。一番大切な生命は抜け落ちて繊維と繊維の間は穴だらけである。知識や情報からイメージできるのは自分の人生経験の範囲内でのイルージョン(幻影)である。 「物知り」には二通りあると思う。ひとつは本を読み、インターネットで調べて知識や情報を鵜呑みにしてどんどん物知りになっていく物知り。試験勉強もそのひとつ。おもしろいから本を読む、多読乱読。ただ、知識や情報からイメージした仮想世界を現実世界に当てはめるととんでもない間違いを犯すということを知っていればいい。 もうひとつは、「結果としての物知り」である。逃れることのできない困難な状況に放り込まれ、あるいは陥り、それを切り抜けるために必死に困難と闘う過程で結果として物知りになったという場合。思春期に芽生えた自分を見つめるもう1人の自分があって、かくありたいという理想の自分と現実の自分の差に苦しみ成長する過程で結果的に広範な視野を身につけたという場合がある。 この2つはまるでちがう。範囲を限った試験では、もしかしたら、試験勉強に熱心だった方がいい成績を得るかもしれない。しかし本当の学力には雲泥の差がある。 例えば教育学の研究をしてそこに某かの結論を得たとする。実際に研究した人は少なくともその研究の範囲に限って言えば、よく現実を見ている。しかしそれを活字として情報化したときにはすでにそれは抽象化された。抽象化された情報を読んだ人がそれで自分の子を教育しようとすれば、とんでもない誤りを犯すことになる。逆は無理だと思う。 科学技術の場合、同じようにすれば、誰がしても同じ結果になる。科学的検証ができる。しかし現実の世界や人間の心に関わる問題では情報化も難しく、情報の読み取りも、極端に言えば「その人次第」に近い。言葉は大雑把な抽象の産物でしかないから。例えば、赤にもいろいろある。「赤い」と言った人がどんな赤をイメージしてそう言ったか。その言葉を聞いた人がどんな「赤」をイメージするかはその人次第である。 こういったことを認識した上で本当の学力とは何かを考えるべきである。ほんの一時期受験勉強に全力を傾けることは必要でも、学力をつけるために幼い頃からお勉強ばかりでは事を誤っても不思議はない。社会そのものが変質していくからその中にいる限り自分が変だとは気づかない。わが身の姿を鏡に写してみたければ、「異文化を姿見」にすべきだし、「温故知新」という事を思い起こすべきである。 |