| 【ハイサーイ!私の徒然草】 |
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愛知県犬山市教育委員会の学力テスト不実施という選択は、学力とは何か、教育とは何かを考え抜いた結果の勇気ある決断だ。 これまで親も子も教師も、社会全体が学力競争の中で育ってきた。競争を勝ち抜いてきた人々は深く物事を考えようとはしない。世の中に出れば全てが競争なのだから教育にも競争は必要だという。今更本当の学力だとか本当の教育だとか言っても、言葉の意味が通じなくなってしまっている。 試験の点数を学力の指標とした競争は今にはじまったことではない。コンピュータが学校や教育産業に入り込んでからはますますひどくなってきた。人々は自分のことしか考えなくなり、人の立場など考えもしなくなる。目の前の教育破綻は教育に競争原理が入り込んだ結果である。 ゆとり教育が実施されたのは、「学力とは何か」という問いに対する回答だったはずだ。ゆとり教育によって授業時間数が減ったから学力が下がったと主張する多数派の人々によって、ゆとり教育は逆行しはじめた。ゆとり教育は定着しないまま風前の灯火である。 仕組まれた競争、あおられた競争の結果は勝者か敗者を分ける。上手くいったとしても得られるものは高が知れている。物か、お金か、社会的地位か、数字で表すことのできる試験の点数か、得られるものはそのようなものである。 本当の学力はあおられた競争や特訓では得られない。他人との競争ではなくて、すべての人が本当の学力をつけるチャンスはある。塾に通うお金があったかなかったか、公立に通ったか私立に通ったかとは別の話である。自分自身の内面的な問題ではないかという気がする。 学力試験の成績が学力だと考えている限り何も変わりはしない。クラブ活動を必修にしても、教育にボランティア活動を取り入れても、ゆとりを作っても、総合学習の時間を作っても、考える力は育たず空回りするだけである。現状を疑うことがなければ、競争に勝っても負けても、人生観という点において同じことである。 学力競争によって教育が荒廃し、本当の学力が低下してしまったのに、追い打ちをかけるように学力テストの結果で教育予算を配分しようとしたり、全国統一の学力テストを実施して本人なり、学校なりに知らせるとか、公表するとかしないとか、競争を煽ろうとするのは正気の沙汰とは思えない。 ゆとり教育の結果、学力試験の平均点が下がったというけれども、それはあくまで試験の成績の話であって、物知りや理屈屋は増えたけれども、戦後の日本人の思考力というか、本当の学力はどん底まで転落しているのではないかという気がする。 大学入試のかつての共通一次試験、センター試験にしても、このような全国統一試験で何点取るかが目標になり、いい点数をとった人が大学の学問研究に貢献することになるのかを考えるべきである。大学から学問研究をとれば大学ではなくなる。 小学校であれ中学校であれ、全国統一の学力テストがどういう意図で実施され、どういう使われ方をするかが問題である。 |