韓国人の見た日本の大学生

Sun.Dec.25,2011

【ハイサーイ!私の徒然草】

 私は今韓国語教室で韓国語の勉強をしている。大学でも講師をしている韓国人講師が言うには、

 韓国の学生は服装も言葉遣いも態度もきちんとしているけれども、日本の学生は顔が生きていないという。私は“然もありなん”と思った。

 その理由を日本人受講生がいろいろ考えた。それは韓国では兵役の義務があって軍隊で鍛えられてくるからでしょうという。

 韓国では兵役はできるだけ若いうちに済ませておこうという人が多い。年齢が高くなると自分より若い上官から指導されることを嫌ってのことだそうである。まあ、それもひとつの理由としてありうる。しかし、そればかりでもなさそうである。

 韓国社会には礼節の儒教精神が今も生きているからではないかと思う。韓国でも日本文化が自由に入ってくるようになって若年層では次第にこの儒教精神も崩れかけているかもしれないけれども、それでもまだ社会にはその精神が残っているからではないかと思う。

 以前、韓国の水原市(スウォン)に行ったとき、向こうに若い男女が歩いているのが見えた。遠目にではあるけれども、「あ、あれは日本人だな」と思った。観光案内所で一緒になった。やはり日本人だった。

 遠目にもすぐにわかった。なぜって、韓国で普通に見る若者は服装も歩き方も、話し方も小奇麗でさっぱりしている。ところが、日本人の若者は服装も歩き方もなんとなくだらしなくみえる。一瞬、「あ、やっぱりね!」同じ日本人として「恥ずかしい!」とそのとき感じた。

 日本国内ではみんなそんな風だから当たり前というか、不快ではあるが、仕方がないと思っていたけれども、海外に出るとその薄汚さが際立って見える。

 今の日本人には人間としての「美学」がない。裏を返せば空気が読めない。自分がそれでよけりゃいいじゃないかという空気が強い。そしてそれが当たり前になる。なんとなく下品である。薄汚い。だらしない。類が類を呼ぶとはこのことである。

 その韓国人講師によれば、日本の大学の先生は、教授がジーパンに、運動靴はいて、薄汚いセーターを腰に巻いて、薄汚い格好で自転車に乗ってやってくる。韓国では到底考えられない。大学構内に入るとき守衛さんに必ずとめられますという。

 日本では中身さえちゃんとしていれば外見はどうでもいいじゃないかということでしょうが・・という。いわゆる職業なり、地位による「・・・らしさ」の喪失である。人間としての「気位」「美学」の喪失である。

 韓国では先生がそれでは学生に対して示しがつきません。服装を見れば、どこがというわけではなくても、ああこの人は教授だ、この人は学長だ、学生だということは一見すればわかるという。それぞれに風格、品格というものがなくてはならない。そうであってこそ学生は先生に礼儀を尽くす。けじめというものである。

 先生に対する学生の言葉遣いは敬語である。学生や生徒が先生にため口や友達言葉で話しかけることなど絶対にない。だからといって先生と学生がしゃちこばった関係というわけではなくて、ごく親しいのである。

 今の日本には「親しい仲にも礼儀あり」ということがわからなくなってしまった。初めて日本にやってきたときは、日本の学生や生徒の先生に対する言葉遣いは到底信じられないことだったという。

 私もそう思う。いくら中身が大切だとは言っても、教師と生徒が同列では教育はできません。相手によって言葉遣いにはけじめというものがある。韓国では言葉遣いを間違えば大変なことになる。

 だから、そのときそのときの人間関係において敬語、謙譲語、丁寧語、ため口(友達言葉)の使い分けができなくなった現代日本人には韓国語は大変に難しい言語ということになる。

 日本では既に教育崩壊である。親に対する口の聞き方もなっていなければ、先生に対する言葉遣いもなっていない。要するにけじめが何もない。

 日本ではわがままが横行しているから、耳あたりのいいことを言ってくれる人がいい人で、どんなにお世話になった人に対してでさえ、目上の人に対してであれ、ちょっときついことを言われれば、態度が手のひらを返したようにできるものだとあきれる。

 年長者の言葉に耳を貸さず、まるで空気が読めず、気が向かなければ他人にはこれっぽっちも協力する気はなく、そういう風だから40になっても50になっても精神は子供である。現代日本人は全体的に言って子供である。

   戦後のアメリカ民主主義の毒が回り、さらに高度経済成長期には金と物にしか心が向かず、内面に目を向けることがなくなった。自分をみつめることもなく、その必要もなく、その結果向上心を失い、目が死んでしまったのだと思う。

 これは、何も韓国の学生と比べる必要はない。1945年以前の日本人と現代日本人とを比べてもわかる。太平洋戦争敗戦を境にして、物の豊かさと平和すぎたことにより、日本人の顔つきがしまりがなく、ふやけてしまった。

 情報社会になり、物知りばかりが増え、子供のうちから早々と人間的な成長の余地がなくなってしまった。ネットは便利だ、しかしどんなに物知りになっても精神年齢は13歳どまり。だから話しても面白みがない。

 ネットや書籍から得た経験を伴わない「情報」は中身スカスカの糸瓜(へちま)のたわしみたいなものであって、霞を食って、浮世離れした仮想世界に生きているだけである。目が死んでしまうのは本当の自分を生きていないからである。

 これは戦前の日本人がどうであったかを少しでも知っていればわかることです。戦前の日本人を知らずとも、海外に出て同時代の外国の人々の顔つきと日本人の顔つきを比べてみれば、日本人の顔がふやけてとろんとしているかがわかる。顔つきが違う。

 戦後移植されたアメリカ民主主義が大きく災いしていると思う。物分りがよくなりすぎて自分というものがないのです。人は「物分りのよさ」と「ビシッとした厳しさ」が備わっていてこそである。

 物分りがよくて、耳当たりのいいことばかり言う人間は自分というものがないだけで使い物にはならない。内面的な向上心のない幼稚な物知り秀才がこの国を滅ぼす。この国はまさにその危機にある。

 ワンちゃんを飼ってしつけをしなかったら、わがまま犬になってどちらがご主人様かわからなくなる。これが日本の現状である。学力競争に明け暮れているうちにこの国には教育は不在になった。