| 【ハイサーイ!私の徒然草】 |
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美しい日本をつくりますというけれども、日本文化の香りも、日本の詩情も知らずしては美しい日本をイメージすることはできない。イメージできないものを実現することは無理である。洞爺湖のような美しい自然を残そうという意味だろうか。 1945年、太平洋戦争敗戦と同時に日本文化は根こそぎにされ、羊頭狗肉のアメリカ民主主義が移植された。その時以来日本人は、日本文化の香り、日本の詩情、日本人の情を捨ててしまった。 日本人としてのアイデンティティをもつ日本人はとっくの昔に現役を退き高齢となった。日本人は温故知新の精神を忘れ、高齢者を情報弱者だと思い、高齢者の声に耳を傾けず、意見を求めることもせず、すぐに知識や情報に解決を求めようとする。 生きたへちまを知っている人が、へちまのたわしの断片を見た時、生きたへちまの全体が見えてくる。しかし、へちまを育てたことのない人が、へちまのたわしの切れ端を見ても、目の前に見えている以上のものは見えはしない。 つまみ食いの知識や情報は「へちまのたわし」のようなものだ。知識や情報からはその人の人生経験以上のことは読み取れない。 昔も今も「亀の甲より年の功」である。しかし本やインターネットから得た知識や情報は言わば現代版「亀の甲」である。インターネットがあれば何でもわかるという考えは、人を思い上がらせる。現代は「年の功より亀の甲」の時代である。現代版亀の甲は仮想世界である。 かくして日本の文化は断絶して久しい。美しい自然は残ってはいるものの、美しい日本文化の香りも情もすでにない。 理屈頭で教育基本法を如何に書き換えようが、教員免許更新の研修をしようが、学習指導要領を変えようが、学力とは何かという哲学も何もないまま教育法規や教育制度を扱いまわしても、教育改革などできるわけがない。 政府の都合のいい結論を引き出すために、国民の莫大な税金を使って、やらせのタウンミーティングをするような低レベルな頭の中身で教育が変わるはずがない。 美しい日本をイメージできない人々が付け焼き刃で教育再生を論議しても何も生まれはしない。教育再生会議や教育審議会はありきたりで、総理大臣の実績作りの道具にされただけである。あまりにも拙速である。政治家、経済人、西洋かぶれの御用学者を排除して、論議は御高齢の文化人にお願いした方がいい。 |