| 【ハイサーイ!私の徒然草】 |
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次期学習指導要領の改訂で、文部科学省は、国語を他教科も含めた学習の基本と位置づけ、「論理的な思考力」を向上させることを軸に教育内容を見直す検討を始めた。高校の国語では、文章理解や論理的な思考・表現を育てる科目を新設する案も出ている。論理的にものを考える力については、学力に関する調査などで課題として指摘されており・・・・・。 これまでの国語の授業についても、文学作品を主体とした感性や情緒の読み解きに力点が置かれ・・・・・。 これは2006年7月29日の朝日新聞朝刊第1面に掲載された記事である。「国語基本に思考力強化 次期指導要領 高校に科目新設も」…本当に問題は指導要領にあるのか? 何度学習指導要領を書き換えたら気が済むのだろうか。論理的思考力といい、感性や情緒の読み解きといい、これは教えて教えられないことのひとつであって、単に学習指導要領を書き換えることでそれを高めることはできない。 情報社会では知識、情報しか見えなくなっているといえる。インターネットがあれば何でも分かると思い違いをする。情報や知識というのは所詮抽象の産物でしかない。文章の「抽象の産物でしかない言葉の鎖」を論理的に解釈してあれこれ言うようになる。 本質的なことは言葉と言葉の鎖の隙間、文章の行間にある。紙背にある。そこまで読み取れなくて、論理的思考が突出してくると世の中が変になる。 「論理的思考力」も大切ではある。しかし、科学技術といい、経済のシステムといい、民主主義という仕組みといい、学問研究といい、論理的で石頭的な思考のかたまりである西洋文明は大きな誤りを犯す。 しかし知識や情報は生きた世界の抽象でしかなく、「繊維だけが残ったへちまのたわし」のようなものである。生きたへちまを知っている人がへちまのたわしの切れ端を見れば、もとの生きたへちまのすべてが分かる。しかし、へちまを知らない人が、へちまのたわしの切れ端を見ても、目の前に見えているもの以上のものは見えはしない。 知識や情報とは高々その程度のものである。そのような知識や情報をもとにいくら論理的思考力を高めたとしても、それは仮想世界での話でしかない。論理的思考が有効な場面というのは狭い領域に限定されている。 物事を順序だてて考えるという意味では、論理的思考力も大切だがその弊害もある。基礎になる学力なりアナログな思考力が育っていなければ、「風が吹けば桶谷が儲かる」式のへ理屈が社会にまん延する恐れもある。 本当の思考力はつきつめれば内面的な問題であり、学習指導要領を書き換えるくらいで解決のつく問題ではない。ゆっくりと話をする時間、話を聞く時間、試行錯誤の時間が必要で、今のように、教師の綱渡り的多忙な毎日ではうまくはいかない。それに内面的に深まらない限り学習指導要領を書き換えるたびに混乱するだけである。 「国語の時間です、さあ考えて見ましょう」では、上手な授業ができたように見えても、実際には成果は上がらない。 科目別に時間を区切って系統的に教えなくてはならないこともあるけれども、あれもこれもと欲張らずに、厳選して最小限にする。あとは教科科目の枠を取り払った「総合学習」にしなくてはうまくはいかないと思う。入学試験のあり方も根底から改めない限りできないことである。「学力観」を根底から改める必要がある。 ゆとり教育を定着させなくてはできない。あれは負担軽減だけが目的だったのか。そうではないでしょう。ゆとり教育の趣旨は何だったのか。すぐに後戻りしようとする古い学力観が抜けきらなければ、迷走するだけだ。途中でころころ変えるくらいなら最初から教育を扱いまわすべきではない。 ゆとり教育といっても実際には教師はゆとりどころか一層多忙になって悲鳴を上げている姿をある中学校で見てきた。教育行政は仕事を増やしても削ることはしないから、新しいことを始めるとますます多忙になるだけである。 ゆとり教育にしても、この国語教育にしても、小学生から英語導入にしても、何を「学力」と考えるか。親も子も教師も社会も頭の切り替えをしない限り何をやっても混乱するだけである。不都合があるとそこだけつまみ食いして、絆創膏を貼っていくような場当たり的な改革は混乱を招くだけで何の成果もない。 一度国の、あるいは子の教育を誤れば、後世までその誤りは遺伝のごとく受け継がれ、ますます混迷を深めるばかりである。いずれにしても、さしあたっては内閣が変わるたびに教育を扱い回さないのが一番である。 国民は自分の子の教育は自分でするくらいの覚悟をもつ必要がある。それは三つ子の魂の大切さである。余計なことをして子の伸びる芽を摘まないことである。摘ませないことである。 |