| 【ハイサーイ!私の徒然草】 |
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“東京都・足立区で来年度導入”とある。なんて馬鹿なことを考えているのか。意識を根底から変革する必要がある。教育行政にかかわる人々は教育についてわかっているのだろうか。テスト成績で予算配分など、一番してはならないことではないか。 学校間の点取り競争をあおるだけである。学校の平均点を上げるために成績の悪い子を休ませたり、何か以前そういうことをした学校があったと記憶する。学校が歪(いびつ)になるだけである。点取り競争になってしまうとテストの成績は本当の学力とはほど遠いものになる。 学力は競争して身につくものではない。特訓して身につくのは、つまみ食いの知識や情報や単純な論理的思考である。物知りであることが然(さ)もいいことであるかのように思い、理屈ばかり言う人間が誕生する。 知識や情報や理屈で頭の中にイメージできるのは生きた現実世界とはほど遠い仮想世界である。これは霞を食って生きているようなものである。知識や情報というのは「へちまのたわし」のようなものである。知識や情報からはその人の人生経験以上のものは見えはしない。 生きたへちまを知っている人が、干からびた繊維だけのへちまのたわしの切れ端をみれば、生きたへちまが見えてくるけれども、生きたへちまを知らない人がへちまのたわしの切れ端を見ても、目の前に見えているもの以上のものは見えはしない。 本当の学力は競争をあおられて身につくものではない。お金をかけて塾に通って身につくものは学力とはほど遠い。三つ子の魂百までというけれども、小さな子どもをよくみるといい。どの子もみな好奇心旺盛で、大人の何十倍何百倍のスピードであらゆることを吸収していく。三歳にもなれば日常生活のことはほとんどわかっている。 親も社会も学校もその芽を摘まないことが第一だと思う。社会にまん延した学力競争こそが子どもの伸びる芽を摘んできた。社会の風潮がそうだとすれば、親はそういう風潮から子を守る必要がある。 また、学力テストの成績を公表することの是非が問われる。これも学校間の点取り競争をあおるだけで害あって益無しである。学力テストの点数が学力だと思っている限り、テスト結果を公表しようがしまいが学力向上にはつながらない。公表する方が弊害が大きい。被害は全て教師と生徒に向かう。 土台、本当の学力をつける素地が日本の社会にあるかどうかが問題である。「学力とは何か」という議論は聞いたことがない。こうすればこうなるというハウツー話ばかりである。そこを曖昧にしている限り、教育基本法をどう改めようが、学習指導要領をどう変えようが、教員免許の更新制度を施行しようが、教員の研修会をしようがそんなことで解決はしない。 |