ゆとり教育と学力


   ゆとり教育で学力が低下したのは授業時間数が減少したことよりも、学力とは何かという哲学の欠如が原因ではありませんか。


Mon.June.02.2003(原文)
Thu.June,11.2009(更新)

【ハイサーイ!私の徒然草】

   ゆとり教育で学力が低下したのは授業時間数が減少したことよりも、学力とは何かという哲学の欠如が原因ではありませんか。

   土曜日が休みになり、何かを減らしても、それ以上に何かを増やすから、現実にはゆとりにはなっていない。行政からの管理は厳しくなる一方で、教師の仕事は綱渡り的である。

   ゆとり教育はそれなりの新しい発想だったけれども、親も子も、現場の教師も、社会も、頭の切り替えが全くできていなくては何も変わらない。

   ゆとり教育で学校5日制になって学力が低下したという。学力検査の点数が下がったの、国際的な学力ランクが下がったのというけれども、それはペーパーテストの結果である。

   時間数が減ったから学力が低下したと考える人々にとっては、この時間数の減少は大きな問題にちがいない。それは日本国民の多数派かも知れない。

   学力低下の原因が授業時間数の減少だと考えるから、補習授業をしたり、夏休みを短縮したり、親は子を学習塾に通わせたりすることになる。

   現実には、このゆとり教育実施と、絶対評価だの観点別評価だの総合学習だのと、ゆとりどころか、教師は多忙になって悲鳴を上げている実態を昨年中学校で見てきた。教師は何を教えたか、生徒も何を教わったかわからなくなっているのではあるまいかと思った。こんな綱渡り的な多忙さの中ではゆとり教育は無理である。

   それまで勤務してきた高校でも、時間数を増やせば学力がつくという発想が根強かった。人生観だから変わりようがないのかもしれない。特定の科目の授業時間数を正気の沙汰かと思うほど増やしたり、早朝課外授業を全生徒に強制したり、夏休みの課外授業を強制したりした。

   いくら時間数を増やしても学力がつかないものはつかないし、のびる芽をつけた子どもの芽は摘まれてしまう。これは生徒のためという理由での「心理的虐待」以外の何物でもない。

   進学率を上げるために課外授業を強化する大義名分は、地域の要望、保護者の要望である。しかし迷惑に思っている心ある保護者も多いはずである。通学距離の長い生徒の家庭にとって、早朝課外授業は家庭生活にまで大きな影響を与える。卒業生は自分の出身校の世間の評判が下がることをおそれる。

   これは目の前の子供たちのことを考えているように見えて、心の深層にあるのは先々もっと学力の高い生徒が入学してきてくれることを望む気持がきっとある。管理職の、あるいはこれから管理職になりたいと考えている人々の実績作りでもある。

   教師も親も子も頭の中味はそう簡単にかわりはしない。ゆとり教育の主旨が理解されないまま、批判が渦巻き混乱する。箱物や制度をいくら扱い回しても教育がかわらない理由がここにある。

   1945年太平洋戦争敗戦後日本人は日本文化をあっさりと放棄し、羊頭狗肉のアメリカ民主主義を継木された。その後の経済復興して、高度経済成長をする中で、日本人は後世の教育を誤った。

   社会はすべてが経済中心の競争原理で動いた。理科教育も経済界の意向を反映して学習指導要領が書き換えられていった。どんどん内容が難しくなり過密になり、理科離れが進みどうしようもなくなった。不都合が出るたびに絆創膏貼りのような手直しをしてきたから、理科の教科書は支離滅裂である。

   教育政策は一度誤ると取り返しはつかない。今日のテレビで教育の専門家ではないにしても、識者ですら経済的にゆとりがない家庭の子どもは私立学校に通えないからどんなにいい素地をもっていても埋もれてしまうとか、地方では不利だとか言っていた。

   現代社会は遊ぶ時間ばかりが増えて勉強する時間がどんどん減っている。遊ぶ時間に対抗して授業時間を増やせとか、昔から子どもは「切磋琢磨」して学力を身につけたのだから、「競争」がいけないという発想はおかしいなどと発言した。「切磋琢磨と押し付けられた競争とはちがうでしょうが!」と言いたかった。あきれてものがいえなかった。

   この人たちにとっては学力テストの成績が学力なのだ。発想は、数字、お金、物、時間、競争の問題であって、そこには本当の学力とは何かという哲学がない。こういう認識をこそ改革しなくてはゆとり教育は定着しない。

                競争を煽られる中では、点取り虫は育っても本当に物を考える人間は育たない。これからはいわゆる成績がいいといわれる子ども達が社会に出た時、彼らによる深刻な社会的な問題が表面化する可能性がある。

   試験の成績が同じ人たちの本当の学力には、数字では比較できない「学力の質」の違いがある。試験の点数イコール学力という哲学しかもてない親、教師、社会が寄ってたかって子どもの芽を摘む。彼らはむしろ子どもの勉強にかかわらない方がいい。

   それよりも三つ子の魂にいいことと悪いことを明確に教えることの方が重要である。「叱ってやること」、それが唯一親が子にできることである。

   授業時間数が減って学力試験の成績が下がったような気がしても、試験の成績という包装紙を1枚はぎ取ってみれば、本当の学力、あるいは人間力の劣化の実態には目を覆いたくなる。

   教育を言う前に、親がいったいどんなことに関心をもっているか、親の生活のあり方すべてから子どもは価値観を身につけていく。情報のたれ流しの中では、子どもは面白いか面白くないかで行動するようになってしまう。

   何がよくて何がよくないことか、人間としてどうあるべきかという人生観は親が三つ子の魂に理屈抜きでインプットしない限り自然に育つことはない。

   すべての子どもには伸びる芽がある。余計なことをしなければいろいろなことを猛スピードで吸収して行く。ハウツー思考で身につけさせられたものは高が知れている。自発的に身につけた学力は何百倍にも何千倍にもなる。というより、その学力は「異質」です。

   「三つ子の魂」がその人の「育ち」になる。ヘレン・ケラーを教育し直したサリバン先生のあのすさまじい闘いを思い起こして見るといい。長じてからの再教育には大変なエネルギーが必要になる。だからヘレン・ケラーは奇跡の人である。

   お医者さんになりたい、学校の先生になりたいというが、なればいいというものではない。どういう人間になりたいかを問うべきである。人であれ、文学であれ、音楽であれ、映画であれ、本物のお手本との出会いが必要である。そうでないと自分はこうありたいというイメージを描けない。

   自分はこうありたいというイメージがあれば、現実の自分との落差に悩み続ける。悩み続けてこそ自分が変わっていく。自ら変わりたいと思っていなければ、外から変えようとすれば激しく反発するだけである。一生固定観念の壁に囲われた狭い井の中から抜け出すことはできない。世間の大きな流れは全て疑って見た方がいい。

   本当の学力とは何かを立ち止まって考えないまま、子を勉強に追い立てれば、教育費ばかりが嵩む。長い目で見ると子どもを駄目にしてしまう。心にゆとりができれば、心配する必要もお金をかける必要もなく全てがうまくいく。

   国家としては国民の学力が低下すると国際競争に負けるという心配をする。しかし、間違った考え方でいくら教育制度を変えても、箱物を作っても、お金をかけても混乱するばかりである。

   ゆとり教育がこれほどまでに理解されないということは、この国は絶望的である。一度、後世の教育を誤れば、子々孫々まで取り返しがつかないということのようである。