断捨離という言葉の違和感

Wed.Dec.22,2010
[ハイサーイ!私の徒然草]

 最近「断捨離」という言葉をよく聞く。新しい造語を流行らせたいのだろうが、あちこちで断捨離、断捨離とやると、この言葉は二番煎じ三番煎じのカビが生えたような嫌〜な響きをもつようになる。

 物への執着心を捨てるという意味では宗教的ではある。宗教的な奥深い話であればそれはそれでいいのだが、なにも断捨離なんて言葉を使わなくても良さそうなものだ。宗教的な響きがあるからなお悪い。

 漢字語は簡潔でいいが漢字語は日本語にはなじまない。もっと日本語らしい表現がいい。

 私はとっくの昔からはじめている。身辺にあるものすべてに、「いる」「いらない」の選択の日々である。「いる」と思っていても、「本当にいるのか?」と厳しく自問する。やがて、しばらく前までは「いる」と思っていたものであっても、やがて「処分」の決定を下す。

 たくさんのファイルがパソコンの記憶装置に整理して保存してある。しかし、あるとき突然その記憶装置が壊れてしまって、救出不可能だとわかった時のショックは経験した人はわかる。しかしあれほど大切だと思っていた書類が全部消えてしまって、どうにもならないとあきらめがついたとき、よく考えてみるとどうでもいいものばかりだったなあと思えるようになる。却ってさばさばしたと感じるようになる。そんなものだと思う。

 それは自分の意志で捨てるか、突然消えるかの違いである。達観して、自分の意志で捨て去ることができるようになったならば、それは大きな成長だと言っていい。

 私は、要するに、目の前の「物」が、現在ある自分という人間の形成過程に大きな意味を持っているかどうかで判断するようになった。本などもそういう視点で取捨していくと身辺がさっぱりする。

 単に自分を物知りにしただけの本は捨てる。単なる知識や情報というのはすぐに古くなる。今一番必要な知識や情報はすぐに入手できる。そんな情報や知識は後生大事にする価値はない。「物知り」なんて意味はない。それよりも自分の人生観形成に大きく関わった物は大切にする。自分から余計な要素を片っ端から削ぎ落としていって、最後に残った自分にとって本質的な物だけを残す。

 だから何一つ捨てることができないで、つまらない物までため込んで整理がつかなくなった状態というのは修行が足りない証拠だ。そのときそのとき整理がつかない物が将来整理がつくはずがない。もともと頭の整理がついていないからそういうことになるのであって、何のために長年勉強してきたのか。

 裏を返せば、人生にとって肝心なことは何かがわかっていない。ちまちました視点しかもてない。大局的に物を考えることができない。物知りほど面白みのない人間はいない。

 私の場合、いつでも今住んでいる家より小さな家に引っ越すことができる。それは、これは自分が生きている間は捨てるわけにはいかない、死んでからも捨ててほしくないという物がはっきり限定されていて、それ以外はいつでも捨てられる境界がはっきりしているからです。