| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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わが家に保存されている手紙の中で一番古いのは、昭和6(1931)年に叔父・正人氏が私の父に宛てた手紙や葉書で、その他にもいろいろな人々の手紙がある。1通1通目を通していると遠い昔にタイムスリップしてしまう。読み終わったとき、それぞれにいろいろな思いを残して亡くなったのだなあと思う。 手紙をもらって読んでしまえばそれでお終いではない。手紙を書いてその時の用件を伝えればそれでお終いではない。そこに込められた思いはすぐには理解されないことが多い。その後何十年も経て読み返してみて、はじめてその真意が見えてくることだってある。手紙というのは大切に保存しておくことに意味がある。 現代人は昔の人に比べると手紙と言えるような手紙をほとんど書かない。メールですむ程度のものである。メールで用件が伝われば読み捨てでいい。パソコンや携帯電話の中に記録された内容は末永く残ることもないし、残すほどのものでもない。 私の兄は昭和18年に医学部を卒業するとすぐに軍医を志願し、軍医学校で研修を受けるために東京牛込喜久井町に1年近く下宿した。母に頻繁に手紙を寄越している。25歳である。昭和18(1943)年といえば日本は戦争で火の車。物資がない。燃料もない。暖房といっても当時は「火鉢」の時代であり、燃料の木炭がなくて、古い下宿なのですきま風で寒いから、2階のタンスのどこそこに丹前(たんぜん)があるから送ってくれだの、本箱を送ってくれだのといった内容の手紙が多かった。年は若くても父が亡き後、家督を受け継いだ責任がある。家長として実家にまつわる様々なことまで采配をしている。 その兄が軍医学校を卒業して12月に満州牡丹江へ軍医中尉として赴任した。赴任の途中で下関まできたが実家に帰る時間がなかったと手紙に書いている。これが最後の手紙である。このとき私は3歳になったばかりである。それからすると私が兄と一緒だったのは2歳半までである。 昭和19年4月には軍医中尉から大尉に昇格したという公報が入り、あまり早いので変だなと母は感じたらしい。すぐ後で、旧日本領南洋群島大宮島つまり現在のグアム島で昭和19年、1944年4月1日に戦死したことが知らされた。戦死の公報、大尉昇任通知、叙勲、そのどれもが深い思いをさせる。軍刀、軍服、将校の指揮刀はどこへ行ったのか今は残っていない。兄は26歳だった。現代人は何歳になったらこのくらいの手紙が書けるだろうか。 1通1通読んでいくとこれらの人々がいろいろな思いを残して亡くなったのだと改めて思い知った。古い手紙を読んでいるとき、気持は遠い昔に戻っている。パソコンで書かれた文章からは意味だけは伝わっても心は伝わって来ない。 直筆の手紙にこそ意味がある。歳月を経て手紙の色が変わっている。手で触れるとぼろぼろと崩れそうな紙。ほとばしるように自然な気持が伝わってくる。それは直筆の手紙なればこそである。 ところが昔の手紙は楷書で書かれた手紙はほとんどない。全部と言っていいほど草書である。現代人とは言葉遣いからして違う。まさに古文書が読めないのと似ている。 現代のようにパソコンのキーボードで入力して作り上げた手紙はフォント(文字の形)の違いはあっても入力した人固有のものは何もない。全部無個性の楷書である。 文章の意味だけしか伝わってこない。手紙であれば文字の鎖だけではなくて、雰囲気が伝わってくる。文字と文字のすき間から、行間から、書いた人の気持までもが伝わってくる。 |