| 【ハイサーイ!私の徒然草】 |
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今日のテレビで少子化についての議論を聞いた。仕事と育児の両立のための立法や制度づくり、それに意識の改革の問題はもちろん大切だけれども、いつも忘れられていることがある。子どもの教育の問題である。保育所や、幼稚園や、学校ではできない教育の問題である。 沢山子どもが生める人たちが議論しても無駄である。住宅の問題、雇用の安定の問題、収入の問題など、ある程度以上の条件がそろった人たちのことしか念頭にない。 それから子どもを育てることができるために必要な条件があまりにも欠けている。非正規雇用が30%を越える今の日本を見ればわかるではないですか。子どもを産める社会ですか、この国は。識者といわれる人たちの議論をうんざりして聞いていた。 それから、「育児」という言葉をどう理解して使っているかがはっきりしない。保育所が不足しているという。しかし保育所の受け入れが十分になれば、その先きの問題はないのか。 その子の一生変わることのない人生観のルーツになる「三つ子の魂」の形成について考えたことはあるか。これまで私はそんな議論は聞いたことがない。 三つ子の魂は以心伝心の「刷り込み」によって形成されるものだから、母親が育てれば母親の子になり、別の人に預けられればその人の刷り込みで三つ子の魂ができる。生活経験から心の機微までが全部コピーされる。単に愛情だけの問題ではない。 今の生活が上手くいっている人々にとっては考える必要がないことかもしれないが、自分にあるいは自分の家族に、自分の子に、孫に何か不都合が降りかかってきそうな状況になってはじめて真剣に物を考えるようになるに違いない。 少子化については、少子化対策をしなかったから少子化に歯止めがかからなかったのではないと思う。出生率は、日本社会が内包する無限に近い数の社会条件を変数とした関数として決まるものだから、小手先の対策で歯止めをかけようとする方が無理である。 物価が高い、税金が高い、地価が高い、建築費が高い、住宅は狭い、教育費が高い。浪費なくしては成り立たないコスト高の社会である。その上収入が増えない。出生率が低下するのは自然の成り行きであって、社会のあり方を根底から変える大転換をしない限り少子化を止めることは無理である。 人口が増えれば経済がよくなるというのは単純思考である。この地球に生きることができる人口には限界がある。もう限界ではないですか。 経済がよくなるというのは、浪費であれ何であれ、たくさんのお金や物やサービスが、ぐるぐる社会を回ること、つまりGDPが拡大することにある。経済競争が際限なく激しくなる自転車操業である。地球環境という点でも、エネルギー資源という点でも消耗戦であるGDPが豊かさの指標と考えるのは間違いだ。 経済高度成長期はお金を使ってもすぐに収入が増えて、物価もどんどん上がった。預金したお金は額面は同じでも実質は急速に目減りして行く。目に見えぬ相手に収奪されて行く詐欺に近い社会システムである。 とにかくお金を使った方が得、借りてでも使った方が得だった。安物をどんどん買ってどんどん使い捨て、買い替えて成り立つ自転車操業である。 世界中の富みには限りがある。国際間でも国民間でも格差が拡大していく。大多数の困窮者を犠牲にして少数派の人々がふくれ上がる結果にしかならない。犠牲になるのはいつも弱者である。こういう社会の仕組みでは少子化は決して止まらない。 高度経済成長期には金と物に振り回されて心を見つめることがなくなる。資源問題、環境問題、食料問題を考えても、際限なく経済成長を続けることはあり得ない。どこかで必ず破綻して、弱者を切り捨てて、再び富の集中がはじまる。 この地球に生存できる人間の数には限りがある。科学技術の力で資源問題も環境問題も食料問題も解決できると考えるのは浅はかである。人間が増えて、他の生物が滅びる。人類だけが生き残ることはありえない。 人口が増え、食糧や資源の奪い合いになる。国際紛争が絶えなくなる。人々の心が荒廃する。犯罪が増える。人口過密になれば摩擦も増える。何一ついいことはない。社会が回らないのを少子化の所為にすべきではない。 経済ばかりではない、学問でも、科学技術でも、西洋文明というよりはむしろアメリカ文明には構造的な矛盾がある。経済中心ではいけない。物欲、金銭欲、社会的地位、権力、などなど欲望をコントロールする東洋的な倫理観が必要ではないか。 Sat.Oct.23,2004(原文) Sat.June.27,2009(更新) |