| 教育とは何かということよりも、目先の成果しか期待しないお客様。いわゆる教育熱心とは放任主義に負けず劣らずの教育不在ではないか。 |
| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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中学校に常勤講師で勤務していたとき、向かいの席の若い女性の英語の先生がちょうど話題になっていたワールドカップのニュースを教材として取り上げた。常識的に考えて、何も間違ったことをしているとは思えないが、定期試験に出題したら、ある生徒の父親から、教科書にないというクレームがついた。了見の狭いみみっちい話である。どうするかなと見ていたら、管理職もたった1人の保護者からのクレームだけで腰砕けだった。争ったら負けると言った。 こういうお客様には試験の点数しか関心がない。お客様のご意見を無下(むげ)にすればどういうことになるか。教育とは何か。勉強とは何か。学力とは何か。そういった哲学がほしいものである。 試験の点数のために頑張って得た成績と、自分を見つめるもう1人の自分がいて、こうありたいと思う自分と、現実の自分とのギャップに悩み、その悩みが原動力となって様々な問題について探求し続けた結果身についたものとは異質だと思う。 クレームは価値観が多様化した結果というよりは、試験の成績が学力だという単一の価値観で走り続ける人々の単なるエゴではないか。 そうではなくて、ふと、立ち止まって、冷静に周囲を見渡して、人とちがったもの、人が気づかないところに何かいいものはないかいな、と考えてみる。思い返せば、私はだいたいそういう選択ばかりしてきたような気がする。その代わり普段はぼんやりでも崖っぷちに立つとすごい集中力とエネルギーが出た。 親が学校の試験問題にまでクレームをつけたり、常日ごろから学校や教師を批判ばかりしていれば、子供も同じように学校や教師を信用しなくなるからよくない。昔なら親の言うことは聞かなくても学校の先生に言って聞かせてもらえば子供も納得した。信頼関係があったればこそである。しかし現代は家庭と学校の連携が昔のようにはいかない。 学校が、保護者というお客様のクレームに、すべて事なかれ主義のご無理ご尤もで腰砕けでは教育にはならない。開かれた学校という言葉は耳当たりはいいが、お客様のご要望に応えるばかりでは学校は歪むだけである。教育のバーゲンセールにはしたくないものである。 |