| ハイサーイ!私の徒然草 |
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現代日本人は知識だとか情報だとかは自由に入手できて、学力競争には勝ち抜いても、目線の高さでしかものを考えることができず、理屈は言うけれども、高い視点と広い視野に欠け、自分で考えて物事を判断するとか、思いもかけない発想をする創造力とか、ここという所で決断する力だとか、1対1で相対した時の人間的な迫力だとか、人間としての総合力は、80歳代以上の方々、つまり戦前派の方々に比べて、相当に「劣化」している。 今日午後9時からテレビ西日本で「たけしの新・教育白書」を見た。ノーベル化学賞を受賞された鈴木章氏、根岸英一の話も聞いた。その生い立ちの中にこそ肝に銘じなくてはならないものがある。どんなに劣化した社会にあってもこのような創造的な方々が現れるのはなぜか。我々の多くとどこが違うかを考えてみなくてはならない。 言葉というものを過信してはならない。言葉で説明できることはたかが知れている。言葉の字面だけ理解してわかったつもりでいるとすれば、そこから得られるものは、すかすかのへちまのタワシみたいに、空虚で、滓(カス)ばかりかもしれない。 真意は言葉と言葉のすき間、文章ならば行間や紙の裏に隠れていて、ほとんど見落とされてしまう。飛び交うすかすかの滓(かす)のような情報に埋もれた重要な情報は見落とされがちである。 この番組に含まれる本当の中身は言葉で尽くせるものではない。実際にこの番組を見て感じ取る以外にない。2時間10分と長時間放送だが、以心伝心ならば一瞬にしてひと掴みにできる。すべての人の心に伝われば人生観が変わり、日本の教育が変わり、社会が変わる「はず」である。 こういういい話は、常日頃から、いい話に出会いたいというアンテナを張っていれば、至る所で出会うことができる。しかし人生観がそう簡単に変わるか。 昔から「心ここにあらざれば見れども見えず、聞けども聞こえず」と言う。心ここにあれば、人生観が変わるも変わらないもない。その人はすでにそのいい話に対する感受性をもっている。そのお話と同じ人生観をもっている。 心ここになければ、いい話も素通りするだけである。見ても聞いても感動することもなく、面白いとも思わないかもしれない。すなわち最初から人生観が変わるはずがありえない。世の中とは大体そうしたものである。これは学校教育の限界でもある。教育によって三つ子の魂(育ち)を越えることはできない。その範囲で何ができるかでしかない。 一度出来上がった人生観は、その人生観では通用しないような、余程の苦境に立たされでもしない限り、変わりようがない。話せばわかるということを過信してはいけない。わかる人はぱっとわかるし、わからない人は何度言っても聞く耳はない。だから、いずれにしても一度言えばたくさんである。 例えば、「子どもは塾に通わせなくてはみんなについていけなくなる」という思い込み、不安があれば、「最初塾に通わせるから、その後もずっと塾通いさせなくてはならなくなるのだ」と言っても、「何を言っているのだ!」としか思わない。そしてずっと子の世話を焼き続け、子にお金をかけ続けなくてはならない。子どものお勉強のことで苦労するもしないも親の人生観で決まる。 私としては子に塾には通わせないように通わせないようにしてきた。勉強に対する考え方が間違ってしまうことを恐れたからです。勉強とはこういうものだと思い込んでしまえば、それを越えることはできなくなる。どんなにお勉強ができてもワンランク上のものの考え方ができなくなれぱ、たかが知れている。そのことを恐れた。 二男は高校に入学する前に、成績がいいから特進クラスに入りますか、特進クラスにはいるならば体育系の部活は無理ですという。私は、この子は小学校の頃から剣道をしています。剣道をやめさせる訳にはいきません。普通クラスに入れて下さいと答え、二男には、普通クラスでも自分の創意工夫と努力で希望の大学に合格するよう頑張りなさいと言った。 剣道くらいなら続けて結構ですと学校が折れた。ちゃんと二男は希望通りの大学に進学し、大学でも剣道部にはいった。合格祝いに一番高い防具をプレゼントした。入学早々合宿で鍛えられた。剣道もさることながら、毎晩毎晩酒で鍛えられた。次ぎの合宿でも鍛えられた。 まだ大学の様子もわからない内からこんなに鍛えられて大丈夫かと。私の時代には物理学科は3人に1人は進級できないほど厳しい所だと聞いていたから、さすがに私は心配した。先輩たちは新入生に言い聞かせた。つらいだろうけれども昼間の講義は絶対に欠席するな。授業中に指名されたらいい加減な答えはするな。正直に言えと。 そして沢山の剣道部入部志願の新入生が振るい落とされて、二男は生き残った。高い防具故にやめるにやめられなかった。すぐに生年月日で新入部員の中で一番年下であることから九州学生剣道連盟の幹事に出され毎日毎日使われた。4年生のときには連盟の幹事長なった。大学剣道全国大会の実行委員長をつとめた。就職氷河期にも関わらず順調だった。 IT関係のトップ企業のひとつに就職した。5年で更に別のトップ企業に転職し、東京本社に勤務している。 この子は大学入試のときにも剣道の合宿で夏休みの高校の課外授業にも出ず、予備校の何とか講座にも顔を出すこともなく、高校受験のときにも大学受験でも、夜12時過ぎまで起きて勉強したことはなかった。我家では教育にお金はほとんどかからなかった。 私がなぜそれほど心に余裕が持てたかと言えば、高校の教師をしていたとき、ある学校では試験を受ければ大学と名のつく所にはほとんど合格できない状態だった。物理の授業もほとんど無理と思えるような状態の中で、一人の生徒が○○大学の物理学科に進みたいと言ってきた。進学校からならともかく、この学校から現役で合格すれば値打ちが違うと私は言った。 秋になった。先生、京都大学の物理学科に進みたい、と言ってきた。残念ながら京都大学は不合格だったけれども東京大学の理1に合格した。 普通の常識からすれば到底信じられないことが起きてしまった。しかも予備校にも行かず、家庭教師もつかずに。私は目から鱗が落ちる思いだった。彼は高校受験の時はその学区一番の進学校に合格できる成績ではなかった。そして敢えて自宅近くの一番学力の低い高校に進学した。 私はそれまでの自分の人生観に確信を持った。諺にある「負うた子に教えられ」である。一度塾通いをさせるとずっと通わせ続けなくては車は動かなくなる。エンジンのかからなくなった車をロープで引っぱり続けても、お金がかかるばかりで、先々はたかが知れているということを感じた。自力で走る車とロープで引っぱり続ける車とでは質的に違うと思った。 こんな話をいくらしても理解しない人は最初から聞く耳を持たないということもわかりました。 親自身が「本当の学力とは何か?」「本当のお勉強とは何か?」と自問自答しないことにある。彼らにとっては学力は試験の点数でしかない。しかし、すでに、そんな学力とはほど遠い滓ばかり頭に詰め込んで生きていける時代ではなくなっている。 |