| ハイサーイ!私の徒然草 | 小春日和の韓国語のお勉強 |
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テレビを見ていると、時々欲しい本が見つかる。E・Sモース氏の100年前の日本についての記述があった。私はこの100年前頃の日本人、私がずっと心に描いていた愛すべき日本人はまさにモース氏が書いているような日本人だったのです。どうしてもこのE・Sモース氏の著書が欲しくなった。 こんな本はこの機会を逸したら二度と手に入らない可能性もある。 この本が絶版になりこの世から姿を消すようなことがあれば、美しかった日本人の記憶は現代日本人から消えてしまう。AMAZONで「日本、その日その日」1,2,3を買った。 書棚にあるというだけでよい。なぜかと言えば、偶然、私の書棚のこの本を手にとった私の子なり孫なりが、その1行でも2行でも読んで、心を惹かれ、こういう美しい日本人の心情に対する感受性が目覚め、感化され、その精神が高まることになるかも知れないと思うからです。 人には「精進」の前に人間として大切なことがある。それを忘れて精進第一にすればそれは必ずや悪になる。頑張ればいいというものではない。高い精神がなければ頑張れば頑張るほど悪になる。競争原理に支配された現代社会こそその見本である。 優秀であることと一流であるということとは関係はない。ただ優秀であるというだけならば、人間としては2流にも3流にも4流にも悪にもなる。 それは本物の文化に感受性があるかないかで決まる。精神文化に強い感受性があるかないかでわかる。必要以上にお金や物を追い求める。お金があるにまかせて新しい物、高価な物を追い求める。これは如何に心が貧しいかを語っている。高価な物、高級品が一流だと思う感覚は下品でさえある。 テレビを見ていても精神を高めるようなすばらしい番組には興味はなく、低俗な番組ばかり見る。大変失礼ながら、大方いつもどんなテレビ番組を見て、どういう番組に興味がないかでその人がわかる。 お勉強ができるようになりたいというのも向上心には違いないけれども、これはその人を二流にも三流にも悪にもする。道のりは遠くても、一流でありたいと思うのであれば、もっと内面的な方向での向上心であってほしいものである。それが「気位」というものではないだろうか。 競争には必ず勝ち負けがある。しかし内面的な向上心には競争はない。勝ち負けもない。すべての人が公平に一流になりうる。それでこそ病気社会は健康社会になっていく。 |