| 戦争で苦しんだ人々の苦しみが、世代から世代へと意識の深いところで生き続けていなければ、単に知識として知っているだけならば知らないのと同じである。 |
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戦争で苦しんだ人々の苦しみが、世代から世代へと意識の深いところで生き続けていなければ、単に知識として知っているだけならば意味がない。 NHKの「被爆体験を劇に〜記憶を受け継ぐ〜」という番組の中で、広島の小学生たちが被爆体験を演じていた。演じている小学生たちの「表情」を見ていた。劇が終わった後のインタビューでの彼らの「話し振り」を見て安心した。 私はこの子がインタビューで語ったことだけでなく、その表情を見た。大人でもそうだが、次々に言葉が飛び出してくる賢そうな顔には深い感動や思いは感じない。しかし言葉を選びながら、ゆっくりゆっくりと語るこの子らの表情には思慮深さを感じた。 原爆資料館を訪れたり戦争体験談を聞いて、戦争で苦しんだ人々の苦しみに思いが至る想像力と感受性が必要だと思う。 しかし、広島の小学生でも広島の原爆投下が8月6日であることを知らないとか、原爆資料館を訪れたことがない子が多いというのは戦争体験の風化を意味する。 大切なことは知識や情報、数字や活字では伝わらない。感動がなければ伝わらない。戦争で苦しんだ人の気持を再現するには劇はいい方法だと思う。 常日ごろ、知っているか知らないかとか、わかるかわからないかばかり言うが、テストで評価しきれない大切なものが抜け落ち、年令とともに共感能力を失っていく。人権教育や平和教育は知識偏重になれば意味はない。 過去の問題としてでなくて現在の問題として共感することができるか。共感しなければ、見聞きしたことは素通りするだけである。 太平洋戦争だとか、空襲だとか、被爆だとか、それは昔のことには違いないが、今も世界中で同じようなことが繰り返されている。過去の問題ではなくて、一連の現在の問題である。歴史は知識ではなく温故知新である。 短い言葉の矢が飛んでくるような話し方には心はない。しみじみ、訥々と語られる 言葉と言葉の間(ま)で心が伝わる。ややもすれば、現代人はしみじみと語ることもなく、人の話に耳を傾けることもない。 |