太平洋戦争中の生活

〜今しか知らなければ、今は見えないし、先のことも見えない〜


Sat.Feb,12,2005
Sun.Mar,15,2009

[ハイサーイ!私の徒然草]
   太平洋戦争中は食べるものがなかった。ずらっと新聞紙を並べて、真っ白い米を天日干ししている家の前を母に手を引かれて通りかかった。私はそれを見て「ご飯が食べたい」と言った。母は家から大切にしていた着物をもってその家を訪ね、「この着物とお米を交換していただけないでしょうか」と頼んだ。


   またある時は、リュックを背負って汽車で田舎に米を買い出しに行った。当時はお金もなかったし、お金というものが信用できなかったから物々交換だった。大概着物との交換である。着物は財産だった。着物はほどいて洗い張りをして仕立て直して着る。そういう時代です。


   今の日本には食べ物は有り余って無駄に捨てられているけれども、もともと太平洋戦争敗戦前の日本人の食生活は質素だった。


   私はまだ4歳か5歳だったのではっきりとした記憶はないが、食糧が不足したのは昭和18〜20年頃だったと思う。米でも、卵でも、魚でも何でも食糧は政府が割り当てた「配給切符」と交換だった。


   米だけではない。食べるものがない。塩は海岸から汲んできた海水を使い、砂糖の代わりはズルチン、サッカリンである。芋、魚、卵、野菜などは時たま配給でしか手に入らない。たしか粉末醤油の配給があった。あれは一体なんだったのだろう。当時の生活は野坂昭如氏の「火垂の墓」というアニメ映画の通りである。


   金属類は隣組(となりぐみ)で全部軍に供出させられた。いつ焼夷弾が落ちてくるか分からない。二階の天井板は一斉にはがした。どこの家にも直径1メートル深さ1メートルくらいのコンクリートの防火水槽があった。


   隣組で空き地に防空壕を堀り、焼夷弾で火災になった時には協力して消火に当たる。隣組でバケツリレーの防火訓練があった。とんとんとんからりんと隣組という歌があった。何でも隣組である。


   農業だって化学肥料があるわけではなて、堆肥か人糞。トイレは全部くみ取り式。くみ取ったし尿は畑の肥料になるから、農家のおじさんがリヤカーに木製の肥桶をいくつも載せて、汲み取りにきた。くみ取らせてもらったお礼に野菜をもらった。リサイクルのシステムができていた。


   だから糞尿から野菜についた回虫、ギョウ虫卵がからだの中に入り込むので、便と一緒にふ化した回虫やギョウ虫が出ることもあったし、寄生虫駆除の薬を飲まされた。


   1945(昭和20)年に戦争に負けて、昭和21年に小学校に入学して給食がはじまった。牛乳はない。アメリカからの救援によるものだと思うが、粉ミルクをとかしたものだった。焦げ臭かった。


   ラジオは私が生まれる以前からあった。真空管4本を使った「並4ラジオ」(なみよんラジオ)です。普通、扇風機などはなかった。白金町の祖父のところには黒い扇風機があった。普通は団扇(うちわ)です。


   殺虫剤などはないから、うちわで蚊を払いながら夕涼みをし、夏の夜は暑いから窓は開けっぱなしで蚊帳を吊って寝る。泥棒なんていやしない。


   ニクロム線を使った電気コンロは戦時中からあった。兄が使っていた古い白熱電球の電気スタンドがあった。掃除はハタキとホウキです。窓を開け放って外に掃き出す。埃は風が運び去ってくれる。


   昔の住宅には各部屋の天井の真中に白熱電灯が1個吊り下がっているだけで壁にはコンセントはない。電気器具は全部天井の照明器具からタコ足配線で使った。しかし発電所が空襲を受けたり、燃料不足で停電やローソク送電が続く。


   昭和10年代20年代はマツダのオート三輪、自転車にリヤカーである。トラックも走っていたが、馬車や牛車が主力。道路で馬や牛が糞をする。塵取りをもって拾い集めて畑の肥料にする。乗用車など見たことはない。道路は車は滅多に通らない。道路は子どもの遊び場だ。


   自転車がある家は少なかった。チンチン電車と呼んだ市内電車と急行電車と国鉄の汽車で、バスは乗ったことはないが、戦争が敗色が濃くなった頃にはガソリンがないから木炭バス(木炭自動車)も現れた。


   トラックだって今のようにセルモーターつきではないから、運転者はトラックの正面にある穴にクランクハンドルを差し込んで、人力でエンジンをかける。方向指示器だってウインカーではない。運転席でレバーをひねると、運転席横にある赤い矢印の形をした方向指示器が、ポコッと水平に付きだす機械式。


   物を捨てるという発想は全くなかった。何でも修理して使う。茶碗が割れても、火鉢が割れても、こうもり傘の骨が折れても、ヤカンやアルミの弁当箱に穴が空いても、何でも修理して使う。修理して回る人がいた。紙くず類はくず屋さんがいた。


   昔は科学技術も素朴だったから、生活コストは低かった。お金がないならないなりになんとか生活できた。今日のように技術が高度化すればするほど、便利になっても生活コストが高くなり、収入が高い生活コストに追いつかなくなった。お金がないなりに自分流に暮らすことを許さない社会になった。


   本でも何でも足でふむ床の上に置くと叱られた。足で物を動かしたりしても叱られた。物は単なる物ではなくて、物の中に物を作った人の心を見ていた。


   「消費は美徳」と言われはじめて以来、安物の使い捨て時代がはじまった。お金が世の中をぐるぐる回ってインフレになり、更にお金がぐるぐる回って豊かになったような気分になり、資源もエネルギーもどんどん消耗し、環境破壊と汚染が進んでいった。お金と物と情報の洪水で心はどんどん貧しくなっていった。