| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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福岡市の中心部は空襲によって焼け野原になったが、私の家は空襲を免れた。自転車はどこの家にでもあるというわけでもない。馬車とか牛車、リヤカー、大八車など主で、トラックやマツダのオート三輪を時々見かけるくらいだ。乗用車は見た記憶がない。 住宅周辺の道路はいつも子どもであふれていた。男の子はビー玉遊び、パッチン(めんこ)、かくれんぼ、鬼ごっこ、女の子は石蹴り、まりつき、ゴム跳び、縄跳び、かごめかごめ、花一匁(はないちもんめ)、おはじきなどで道いっぱいだった。大きい子から小さい子まで一緒に遊ぶ。 正月は男の子は凧上げ、女の子は羽子板。家の中では双六、いろはカルタが定番の遊び。テレビはない。コンピュータゲームはない。大人は花札。大人と一緒に見よう見まねでやっていただけで、私は花札のルールは覚えなかった。トランプ遊びはよくした。それからお正月には雑誌を買ってもらう楽しみは付録の工作だった。 小学校も高学年になると、大晦日から筥崎宮の夜店に行った。三社詣りは歩いて筥崎宮、西鉄宮地嶽線で宮地嶽神社、西鉄大牟田線で太宰府天満宮に従兄や友だちと行った。ずっと後には、正月は三郡縦走と言って糟屋郡の若杉山から登りはじめて、砥石山、三郡山を経て宝満山まで行き、太宰府から西鉄大牟田線で戻ってくる。当時の中学生、高校生は山登りをよくした。 私の家は市内電車が今のJR吉塚駅の少し先きまで来ていて、折り返し駅「三角」(みすみ)までは歩いてすぐだった。バスの記憶はない。昔は福岡市の中心部は小さくて、ちょっと中心部を外れるとほとんどが畑と水田だから、市内電車、西鉄大牟田線、国鉄(JR)の3つの交通機関で不便はなかった。 住宅地を4〜5mの道路が通っている。舗装されていないでこぼこ道。牛車や馬車が通る。牛や馬は荷車を牽いて歩きながらふんをする。ふん処理などしないから、畑を作っている家では、ちりとりを持ってこの牛ふん、馬ふんをありがたい肥料として集める。 当時の冬は寒かった。昭和33年頃でさえも、このでこぼこ道が冬になるとかちかちに凍結する。当時はまだ下駄を履いていることが多かった。凍結したでこぼこ道で下駄が滑って足首をこねた。足の裏が内出血して紫色に腫れ上がった。翌朝はお腹をこわして散々だった。 ピカピカの新築家屋などは見たことはない。古い木造日本家屋でばかりである。間仕切りは古来の「襖」と「障子」。最近はセキュリティに気をつけるけれども、当時は戸締まりといっても簡単だった。カギなどかけないで、家人はちょっとそこらにお買い物という家もあった。夏の夜は蚊帳を吊って、窓は開け放して就寝する。それで大丈夫な時代だった。 今の東京ほどではないが、住宅密集地と言っていい。その中にレンガ塀で囲われた農家がいくつも残っている。米の収穫期には前庭で、博物館に行かなくて見ることはできないような足踏み式の木製の脱穀機で脱穀していた。トイレは汲取式だから農家のおじさんがリヤカーにいくつも桶を積んで汲取りにやってくる。肥料になるからお金の代わりに野菜を置いていく。その他には牛ふん、馬ふん、堆肥を使う完全なリサイクル社会だった。 だから寄生虫に感染する。ギョウ虫検査、回虫検査というのががあって駆虫剤を飲む。それが普通だった。サナダムシはちょっとやっかいだ。それが今では化学肥料を使うから清潔にはなったけれども、東南アジア諸国に比べて日本にはアトピー性皮膚炎が多い。清潔になりすぎたこととの関連が報告されたこともある。 周辺一帯は敷地延長つきの宅地が多い。今ある道路は昔の農道で、道路が新設されないまま、畑を細分化して住宅が次々に建てられていったに違いない。今でも車が離合できないとか、人が通るのがやっとという路地が沢山ある。 どこの家の前にも黒いフタ付きの小さな木製のゴミ箱があった。当時はゴミ回収車などなかった。買い物はみな買い物かごを下げて行く。包装紙はせいぜい新聞紙。ビニール、プラスチックなど石油化学製品はない。食料は丸ごと食に近く食べ残して捨てることはない。農薬は使っていない。大根葉だって、人参葉だって全部食べる。リンゴは皮をむかずに丸ごとかじる。 庭がある家では土に埋める。風呂は石炭風呂だから紙くずでも、木屑でも石炭の代わりに燃やして使う。クズを拾ってまわる人がいたということは、どこかでリサイクルされていたに違いない。和服は親が着ていたものは仕立て直して子が使う。子ども服は破れれば繕って着る。物を粗末にすること、捨てることは悪だった。ゴミが出ない社会だった。 当時の私の家は1階が玄関を入って左に縁側つきの8畳の座敷、その奥に6畳和室、玄関の右に四畳半の茶の間、その奥に台所、風呂場、トイレがあった。2階は南東角に床の間つきの6畳の間と南側と北側に縁側があって、北縁側の先きにはバルコニーが、西側には床の間がある8帖の和室。 2階の2間には下宿人、またあるときは間借人がいた。戦後は福岡に転勤になった従姉妹兄弟の一家と同居した。下宿屋というのはなかった。昔の下宿は普通の家庭の空いた1部屋を借りてはいるものの家族の一員になることと同じで長期のホームステイみたいなもの。 不動産屋さんなんてないから、下宿人は人づての情報で直接やって来た。間貸しや下宿に契約書はない。それで不都合はなかった。貸し主も別に商売でやっているわけでもない。 戦争に負けたとはいえ、心の通う安心安全なのどかな時代でした。 |