母ちゃん!猫が魚!
| 太平洋戦争がはじまる2年前に生れ、誕生前に父を亡くし、戦争で兄を亡くし、母子家庭で育った。敗戦から復興、高度経済成長期を経て情報社会を迎えた。敗戦で日本人のものの考え方が根こそぎにされ、アメリカ民主主義が移植された。民主主義の本質は腐敗と堕落である。 |
| [ハイサーイ!私の徒然草] | 太平洋戦争中の生活 |
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太平洋戦争がはじまる2年前に生れ、誕生前に父を亡くし、戦争で兄を亡くし、母子家庭で育った。敗戦から復興、高度経済成長期を経て情報社会を迎えた。敗戦で日本人のものの考え方が根こそぎにされ、アメリカ民主主義が移植された。きれいごとの民主主義の本質は腐敗と堕落だった。 太平洋戦争で日本軍の敗色が濃くなった昭和19年頃のある日、1匹の猫が大きな魚をくわえて我が家の庭先を走り抜けようとした。大きな声で、「母ちゃん!猫が魚!」と叫んだ。母はほうきを振りかざして猫を追っかけた。驚いた猫は魚を放り出して逃げた。その魚が我が家の思いがけないご馳走(ちそう)になった。 米や麦、魚や卵、肉などめったに手に入らなかったから、庭に生えた雑草の中で食用になりそうなものを野菜代わりに食べた。砂糖などありはしないから、合成甘味料のサッカリンやズルチンの錠剤をなめ、近くの海岸で汲んできた海水を食塩の代わりに料理に使い、味噌・醤油ももちろんありはしない。しかし粉末醤油というのがあったように思う。あれは一体なんだったのだろう。 時々、すぐ近くの小学校の校庭に日本軍の兵隊さんの一団がやって来て休んでいた。兵隊さんたちは飯盒(はんごう)で白いご飯を炊いて食べていた。私のような小さい子が2〜3人で薪(たきぎ)にもならない小さな木片をもって行くと、兵隊さんがおにぎりをくれた。兵隊さんとは言っても職業軍人ではなくて、召集兵だから普通のおじさんです。 ○○大学を卒業して先祖(宮城県)累代の医業は継がず、陸軍の軍医を志願した兄が、戦地から帰省したときに菓子を持ってきたことがある。兵隊さんはいいなあと思った。大きくなったら何になるかとたずねられると、「兵隊さんになる」と答えた。ラジオからは軍歌が流れ、子供の絵本も兵隊さんの勇ましい姿や、軍艦や戦車のついた戦争ものばかりだった。 兄は昭和18年に医学部を卒業するとすぐに、軍医を志願し、東京牛込にある軍医学校に入った。その年の12月には、実家に帰る間もなく、軍医中尉として満州に派遣された。そして翌年4月に大尉昇進の通知が届いた。変だなと母は思った。満州に行ったはずの兄はグアム島(旧日本領南洋群島大宮島)で戦死していた。 ちょうどその頃、ある夜、母と茶の間にいた。母が「あれ、兄ちゃんの靴音がする」と言った。母が外に出てみたが誰もいなかった。その後、戦死の公報が来た。母が「あの時兄ちゃんの霊が帰って来たのに違いない」と言った。 グァム島の日本軍玉砕の数ヶ月前のことである。満州に派遣されていたはずなのに、急きょグアム島に隊が移動して戦死することとなったらしい。将校の指揮刀と軍刀、それから階級章が帰ってきただけで遺骨は帰って来なかった。 戦争末期になると、米軍機による本土爆撃が頻繁になった。爆撃されないように、灯火管制といって、電灯に黒い紙をかぶせて明かりが家の外に漏れないようにした。発電所が爆撃されたり、南方からの石油の補給路が断たれ、燃料不足もあって電気の供給が十分にできず、停電したり、明るくなったり暗くなったり、ローソク送電といって、ローソクの灯ほどの薄暗い中で過ごすことも多かった。 米軍の爆撃機B29が本土に近づくと警戒警報、空襲が近づくと空襲警報が発令され、住民は灯を消して、防空頭巾(ずきん)をかぶり、貴重品をまとめて防空壕に入って敵機が去るのをじっと待った。時折家の前のコンクリートのたたきの上に機関銃の薬きょうが落ちてきてカランカランと音を立てた。 B29が投下する焼夷弾(しょういだん)が天井に引っかからないように、家の2階の天井板は全部はがすよう命令がでた。終戦時にはどこの家も2階の天井板はなかった。 武器を作る金属材料がないので、家中の金属類は隣組(となりぐみ)組織で全部没収された。ベニア板で作った戦闘機が飛び、松の根を掘り上げて松根油(しょうこんゆ)を抽出して飛行機の燃料を作るありさまだった。 日本軍にはレーダーがなく探照灯(たんしょうとう)で爆撃機B29を照らし、高射砲を発射しても飛行機の高度が高くて弾が届かない。日本軍の戦闘機が追っかけても、爆撃機を撃墜することは難しかった。 我が家周辺は空襲を免れたものの、福岡大空襲はこの頃だったものと思う。その夜は福岡市中心部が爆撃で焼ける火で真昼のように明かるかった。防空壕から出てその光景を見ていた。 米軍が博多湾から上陸してくるというデマが広まった。若い男は、上陸してきた米兵と竹槍で戦う覚悟で町に残り、老人・女・子供は全員安全な所に疎開させられた。私は佐賀県の三間坂という所にある山中の寺の本堂に1週間ほど疎開した。そのうちに終戦になった。 私が小学校に入学したのは、日本の無条件降伏した翌年の4月です。食糧はもちろん、制服もランドセルもノートも鉛筆も何もない。つぎはぎだらけのズボンやシャツを着て、母がどこからかもらってきた戦争中に兵隊さんが使っていたハイノウというものを背負って下駄履きで通学した。 上級生から譲ってもらった教科書は進駐軍の命令であちこち墨で塗りつぶされていた。新聞紙と交換したノート、そのノートの紙の色は麦茶のような色をしていて裏はザラザラで表はつるつるした変な紙のノートだった。鉛筆も1cmくらいになってもまだつぎ足して使った。 町にはにぎやかなアメリカの音楽が流れ、米兵と米軍のジープが行き交い、子供たちはジープの米兵に向かって「チョコレート!チュウインガム!」と叫ぶと、米兵がガムなどを投げてくれた。 小学校に入学したときの担任の先生は若い女の先生だった。米兵が校門の前で待ち伏せた。私の家は裏門から200メートルくらいの奥まった所にあった。隙をみて先生は私の家に駆け込んだ。そして間もなくやめて故郷に帰った。 次に若い男先生がきた。この先生も長くは続かなかった。昭和22年になると先生がコロコロ変わることはなくなった。敗戦後の混乱期、それでも子どもたちの学力はちゃんとついている。物質的には貧しくても、まだまだ心の温かい世の中だった。 それにしても今の世の中、何故こんなにも学力学力いうのだろう。学力学力いうから逆に本当の意味での学力が低下した。小粒になった。 私が育ったのはそういう時代だった。小さいときから、物を大切にしなさいと教えられた。使えるものを捨てることはありえなかった。何でも修理して使うのが当たり前だった。当時のアルミは純度が低かったせいかすぐに腐食して穴があいた。穴の開いた弁当箱や折れたこうもり傘(雨傘)の修理屋さんが町内に回ってきていた。 陶器が割れたら今なら捨てる。しかし、割れた茶わんでさえも母は糊で張り合わせようとしていたのを思い出す。火鉢が割れたら、陶器が割れたら、どうしたかといえば、当時は割れ目の両側にドリルで小さな穴を開けて、その穴に大きなホッチギスの針を金槌で打ち込んでとめた。 修理に回ってくるのは朝鮮人のおじさんだった。当時は南北に別れていなかったから全部が朝鮮だった。おじさんが「朝鮮人朝鮮人、人をパカにするなッ!」と叫んだことがあった。 敗戦までは、日本はリサイクル社会だった。農業だって化学肥料など使いしなかった。全部有機肥料だった。ゴミ収集車なんてありはしなかった。紙くずは全部くず屋さんがもって行く。各家庭には小さな黒い木のフタ付きのゴミ箱があった。丸ごと食に近く、生ゴミなどあまり出ていなかったのではないかと思う。米粒1個だって捨てる余裕はなかった。 小学校の5、6年生の頃だった。社会科の時間に先生が「ある会社の入社試験で、ロープで縛った荷物を解く作業をさせたところ、ある受験者はていねいにロープをほどき、もう一人はナイフでロープを切って素早く作業を済ませた。どちらの人が採用されたと思うか」とたずねられた。 当然多くの生徒が、ていねいにほどいてロープを大切にした人だと答えた。ところが先生は「実はロープを切ってでも仕事を早くすませた方だ」と答えられた。これは自分にとって時代が変わって能率第一主義の時代になったんだなあと驚きを感じた出来事だった。 それ以来、「消費は美徳」といわれ、まだ使えるものを捨てさせて新しいものを次から次に買わせる現在のような浪費社会になった。景気が悪いと消費をすすめる経済政策は今も変わらない。これは資源の消費と環境汚染、環境破壊を意味する。浪費者会は際限なく続く。 |