幼い頃の記憶

Wed.Oct.27,2004
Thu.July.09,2009

[ハイサーイ!私の徒然草]

 昭和18年、19年、20年頃は、私は4歳〜6歳だった。繰り返し繰り返し米軍機の空襲を受けた。警戒警報に続いて空襲警報が発令されると、母は貴重品をまとめて、防空頭巾を被って防空壕に逃げ込む。灯火管制があって、明りが外に漏れないように電灯には黒い紙製のカバーをする。時折、玄関前のコンクリートの上に機銃の薬きょうが落ちてきてからんからんと音をたてる。

 病院を経営していた父は昭和14年にに亡くなっていた。私の兄は昭和18年4月に医学部を卒業したが、母によれば、そのうち召集令状がくる、それだったらむしろ軍医になった方がいいと言っていたそうである。軍医になれば将校である。卒業と同時に東京牛込にあった軍医学校に入り、12月には満州に陸軍軍医中尉として派遣された。実家に立ち寄る暇もなかった。

 兄は昭和18年11月17日に一度帰省している。東京に戻る日に母と3人で筥崎宮の近くの写真館で記念写真を撮った。これが最後の写真になった。

 医学書や顕微鏡などは仙台の従弟に譲って戦場に赴いた。生きて帰ることはないと感じていたにちがいない。その従弟も学徒動員で戦場に送られたが、幸いにして生還し、復学して後に東北大学医学部教授となる。

 昭和18年12月に満州に派遣されて、19年4月半ばにはグァム(日本領南洋群島大宮島)へ移動して戦死した。戦死の公報が入る前に軍医大尉昇進の通知がきた。

 ある晩、茶の間に母と二人でいたとき、母が「玄関に誰か来る、あれは兄ちゃんの足音では?」と言った。調べたが誰もいなかった。後で母はあの時兄ちゃんの魂が帰ってきたのに違いないといった。帰ってきたのは軍刀、指揮刀、階級章、それに木札だけで遺骨は帰って来なかった。遺骨はグアム島に眠ったままである。

 食料欠乏の戦時に、名誉の戦死ということで、国からは祭壇と供え物の菓子など一式が贈られた。祭壇は玄関に作った。近所の大きい子どもが二人、抜き足差し足で祭壇の菓子を盗みに来た。兄は小学生の頃母親を亡くし、父が私の母と再婚するまでは、父子家庭で過し、どの写真を見ても淋し気である。

 父は母と再婚して1年と経たず、私が生まれる前に亡くなった。兄が亡くなったのは私が4歳半のときである。1〜2歳の頃は兄が私をだっこした写真がある。その頃の記憶はないが、兄については記憶に残っているのは4場面だけである。

 ひとつは、食事をしている兄の足の親指で遊んでいたこと。私が触ると兄はわざと親指を動かした。それが面白くて飽きずに遊んでいたこと。

 もうひとつは兄が出かけるときに玄関先に腰掛けて靴ひもを結びながら口笛を吹いた。私はそれをまねをしたがいくらやっても音が出なかったこと。

 兄が幼い私の手を引いて散歩に出かけた。ちょうど東公園の入口にさしかかったところで、私が道に落ちている石ころか何かを拾おうとしたら、兄が、「アペチイからだめ」と言った。アペチイとはどこの言葉か知らないが、「汚いからだめ」といったことはわかった。

 最後のひとつは、そういえば兄と最後の別れになった18年に写真館での雰囲気だけは心に残っている。それ以外の記憶がない。


 私が2〜3歳の頃はまだ空襲もなく、のどかだった。母に連れられて、市内電車に乗って、急行電車に乗り換えて白金の祖父母のところによく出かけた。夕焼けの薄赤い光の中を祖母におんぶされていたこと。「七つの子」や「夕焼けこやけ」の童謡が懐かしい。

 祖母は、夕方になると人さらいが来るから早く帰らなきゃ、サーカスに売られるよとよく言った。だから小学校に通うようになって、筥崎宮の放生会のサーカスを見に行くと、いつも、この人達はみな人さらいにさらわれて売られて来た人達に違いないと思っていた。見せ物小屋に入ると、ろくろく首がはじまったり、ストリップがはじまったり、幽霊屋敷に入ったり。がまの油売りがいたり、バナナの叩き売りがあったり。


 私の心に影響を与えたのは、母の心配性な性格を受け継ぎ慎重で引っ込み思案になった。母はきれい好きだというのが心のどこかにあったから、私もその影響は受けている。小学生の頃、母に「哲学ってなに?」とたずねたら、母は「難しいことを考える学問」と言ったから、哲学は難しいものだと思い、「赤って何?」と聞けば、火炎ビン事件などあっていた頃だったから、「怖い思想」だと言った。先入観が抜けるには時間がかかった。


 母方の祖父の実家は昔は武家だったが、明治になってからは下関で農業をしていた。貧しかったから祖父は小学校を出ると上の学校には行かせてもらえなかった。電気関係の通信教育で勉強して、今のNTTの前身である逓信局の技師になり、祖父の兄も単身上京して働きながら今で言う大学に進み、電機大手企業に職を得た。祖父は退職後は私設電話業をしていたから、祖父のところへ遊びに行った時は、いくつもの引き出しのついた道具箱の中の電話器の部品でよく遊んだ。その道具箱は、今でも工具類を入れて使っている。

 祖父は手先の器用な人だった。戦後何年か経って、電話関係の事業を廃業してからは、「お琴」の特許部品の製作を頼まれ、規格通りの商品を自宅の縁側を作業場にして作った。それは琴に取り付けて、弦の張り具合が調節できるようにするための付属品だった。

 祖父の器用さを見込まれてこの仕事が舞い込んだのだが、規格品を大量につくり出す、あの精密な木工技術は60歳も過ぎて、どこで、いつの間に身につけたのか。素材の角材を斧で削って、琴のあの曲線にあわせて、規格通りの形にする。穴をあけて、弦を巻き付けるコマをはめ込む。きゅきゅっという感じで寸分の狂いもない。弦の本数と同じ数のコマをはめ込んだときの形が規格通りなくてはいけない。そういう祖父の姿を見ながら私は育った。祖母は遠慮ばかりする控え目だが、とても働き者だった。


 自宅の二階には、大学が近かったため、医学部の学生、文学部、経済学部などいつも2人の下宿人がいた。隣には父が仙台から呼び寄せた祖母とおばがいた。仙台のおじも、従兄もこちらへ来たときは立ち寄る。幼い私にいろいろご先祖のことや一族のことを言い聞かせてくれた。多様な環境があった。

 ある日、仙台の祖母は幼い私の手を引いて出かけた。通りの角を曲がったところで、道路の端に近い方に祖母、外側を私が歩いていた。そこに小学生が乗った自転車が祖母に突っ込んできた。祖母は転んだ。私はその瞬間までは覚えているが、その後のことは何も記憶がない。それ以後、祖母は寝ついてしまった。実の娘であるおばが介護した。逆だったらきっと私がけがをしていた。

 3歳と言えば昭和17年だからすでに戦争は始まってはいたが、まだ日本本土が空襲を受けるほどではなかった。日本が降伏したとき私は5歳半だった。天皇陛下の終戦の玉音がラジオから流れたとき、ほっとした空気を感じた。