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昭和20年(1945年)8月、太平洋戦争に負けた日本は国土は焦土と化し、物不足と、急激なインフレが続いた。現金は物に換えなければすぐに紙切れ同然になる。そういう事情で我が家に最新の電気蓄音機がやって来た。 昔の日本のラジオはST管という大きな真空管を4本使った並四受信機だった。当時はNHK第1放送と第2放送しかなかった。感度も選局の分離度も悪く、感度をあげるためのもう一つのつまみを回すとピーピーガーガーという音が出る。スピーカーもマグネチックスピーカーという簡単なものだった。 最新型の電蓄はスーパーヘテロダイン方式といって、感度も局間の分離度もよく混信することがなかった。遠方のたくさんの放送を聞くことができた。スピーカーも現在のような音質の良いダイナミックスピーカーだった。 この電蓄は大きく高級に見えた。幅60〜70cm、高さ1m程、外観は濃いブラウンの木製でニス塗の家具調である。下半分はクロス張りで大きなスピーカーがあり、上段にはチューナーやアンプ、最上段の天板の蓋を上げるとSPレコードのプレーヤーがあった。 小学校2〜3年生の頃この電蓄が故障した。戦後のことでもあり、ラジオを修理できる人は少なかった。たまたま近所に「宗我さん」というラジオに詳しい旧制中学生(現在の高校生)が修理に来てくれた。 このとき交換した古い2連バリコンという部品をもらった。宗我さんは、他に「鉱石検波器」と「レシーバー」(今でいうヘッドホン)があれば鉱石ラジオができると言った。母は「鉱石ラジオというのは実用になるのですか?」と聞いた。しかし並4ラジオが普及するずっと以前はこの鉱石ラジオの時代だった。私はいつかこれでラジオを作りたいと思ってそのバリコンを宝物のように大事にした。 小学校4年生の自由研究の時間に鉱石ラジオ製作に取り組んだ。やっとこのとき部品を買ってもらえた。教育委員会の学校視察の日にはクラスで私が鉱石ラジオについて発表した。 ![]() 鉱石検波器というのは現在のシリコンダイオードやゲルマニウムダイオードに相当するけれども、方鉛鉱やセン亜鉛鉱の小さなかけらが本体だから、原始的なものである。当時の剃刀の替え刃の表面の酸化皮膜も検波器として使えた。 両端に金属製の電極がねじ込み式の蓋になった長さ2cm、直径7〜8mmの小さなエボナイト(合成樹脂)の円筒の中に鉱石とバネが入っていた。この鉱石の破片の入り具合で検波性能が大きく違うので感度が悪いときは蓋を開けて鉱石の位置を変えて調節した。 レシーバーの調子が悪いときは蓋を開けて、振動板と磁石の間隔を調整した。コードが断線したら自分でハンダづけして修理した。コイルは自分で手巻して作り、アンテナは自分なりに張った。宗我さんは太い竹で二階の屋根より高いアンテナを立てていた。あれがあったらもっとよく聞こえるのにと私の羨望の的だった。学校から帰ると宗我さんの部屋に入り浸った。宗我さんが大きなラジオやアンプを作っている傍で飽きもせずに眺めていた。 そのうちにハンダづけのしかたや、回路図の見方、部品のはたらきや電気の性質などいろいろなことをいつの間にかわかるようになった。手取り足取りして教えてもらったわけではなくて、技術を盗むというのはこのことです。小学校の6年生の頃には並4受信機は自分で作れるようになり、自分で作ったラジオを家で使っていた。 ![]() 私は忙しかった。ラジオ作りだけでなく、ボール紙で筒を作って天体望遠鏡を作って月を眺めたり、針穴写真機で写真を写して現像焼き付けをしたりした。 夕方は博多名物の「オキュウト」を近くのオキュウト製造所に仕入れに行った。オキュウト草(海藻)を大きな釜で煮立てて溶かすところから、溶けた液体を柄杓ですくって広い台の上に一定量ずつ流して、それが冷えると薄く丸いオキュウとの出来上がり。それをくるくるっと筒状に巻いて、1個いくらで仕入れてかえる。翌朝は暗いうちから売り歩いた。 夕方は夕刊フクニチの新聞配達をした。最初は小学生はだめだと断られたけれども販売店のお向かいの先輩に頼んでもらって特別に雇ってもらった。言われるのが配達が終わって戻ってくると、「さあ、拡張(営業)に行ってこい!」とおじさんが言う。壁には成績がグラフで張り出される。実績分の手当がつく。これが小学生にはきつかった。 中学に入学したころには、かつての電蓄と同じスーパーヘテロダインラジオは自在に作れるようになっていた。次は、は持ち運びできるラジオに興味をもった。当時は、旧日本軍が通信用に使っていた電池式の真空管(ST管)を3本〜4本使った。(写真は当時私が使っていたもの) 真空管をはたらかせるためには、70ボルト位必要だった。積層乾電池といって全体の大きさはB7版位の大きさで重く、このほかに真空管のフィラメント用に1.5ボルトの乾電池2本が必要だったから携帯ラジオと言っても大きくて重かった。 ![]() 当時購読していた月刊誌は『初歩のラジオ』『電波技術』だった。現代のパソコンのように部品を買ってきて組み立てるだけではなくて、部品を取り付けるシャーシという台をドリルやヤスリを使って穴開け加工からしなくてはならなかったし、ケースも自作するしかない。 やがて日本軍放出の電池式の真空管が手に入らなくなった。次に出たのが親指ほどのミニアチュア管という真空管で、1本500円もした。1ヶ月間の新聞配達をの給料が700〜800円だったから、この真空管1本のために1ヶ月近く働かなければならない。昭和28(1953)年当時としては大変高価だった。 中学1年生の頃は趣味に熱中して、学校をよく休んだ。2年生になって担任からひどく叱られたのがきっかけで、趣味生活は中学2年生の1学期で終わり、今度は勉強に熱中した。将来の進路については大学の工学部の電気科に進みたいと思っていた。高校時代は自然科学はおもしろいと思ったが、技術系には全く興味はなくなった。 2000.09 |