| ハイサーイ!私の徒然草 | 韓国語教室/한국어 교실 |
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柳田邦男著「言葉の力、生きる力」(新潮文庫)の中で「人はだいたい5、6歳の頃遅くとも7、8歳の頃に何かに強く感動したり、心を惹かれたりする経験をすると、それが原型となって、右脳の中に、どういうものに感じやすくなるかのレセプターが形成されるのではないか・・・と」そして、「結局人間が生涯に為すことは、幼少期に用意されているという仮説は真理なのだろう」と書いておられる。 人生を振り返って見るとまさにその通りだと感じることはありませんか。私は全くその通りだと思います。三つ子の魂の次は、小学校低学年まで頃が一番人生にとって意味のある時期なのです。お勉強などよりはるかに大切なことです。 20年8月に太平洋戦争が終戦になり、物資不足から物価の高騰で貨幣価値はどんどん下落する時代です。現金があればすぐに物に替えた方がいいということで、母は最新型の大きな電蓄を買った。 その電蓄が故障したのが、あれは私が小学校2年生の頃だったと思います。昭和22年頃です。当時はアメリカから入ってきた最新型の電蓄を修理できる人がいなかった。たまたまご近所に旧制中学(今の高校)の生徒だった宗我達夫さんが修理に来てくれた。 座敷で母が私の左に、私の右前に宗我さんが居て、幅5、60センチ、高さ1メートルほどの家具調の木製のケースから中の機械を取り出して修理をしている。 「二連バリコン」という部品を新しいバリコンと取り替えたので古いバリコンを私にくれた。そんなたいそうな物ではない。 宗我さんが、このバリコンのほかに、鉱石検波器とレシーバー(イヤホン)とがあればラジオが作れるといった。 母は、ぞれで実用になるのですかとたずねた。宗我さんは、ちゃんと放送は聞けますよといった。 この瞬間でした。私の好奇心のスイッチがONになったのは。その瞬間からこの古バリコンが宝物になった。ずーっと、いつかこれでラジオを作るのだと思い続けた。 いつのことかはっきりしないけれども、小学校では自由研究という時間があって青虫を飼うことになったのだけど、すぐに死んでうまくいかなかった。次が鉱石ラジオの出番になった。ここではじめてバリコンのほかに必要な部品を買ってもらった。小学校5年生頃ではなかったかと思う。 教育委員会の視察の際の模範授業のときに私が研究発表した。この頃まではまだ自由自在というわけではなかった。試行錯誤の頃だった。それから学校から帰ると近所の博多オキュウト製造工場に出かけていってオキュウトを仕入れて、翌朝学校に行く前に売り歩き、夕方には夕刊フクニチ新聞を配達し、給料でラジオの部品を買った。 小学校6年生になると、真空管を4本使った従来一般的だった並四受信機を作り、中学1年生の頃はスーパーヘテロダイン受信機を何も見ないで自由自在に作れるようになり、ラジオの故障なら大体すぐに修理できるまでになった。 しかし、趣味に熱中するあまり、学校をよく休み、遅刻ばかりした。毎日学校に行くものだという気がなかった。生活習慣がまるでなっていなかった。母子家庭だったし、第二反抗期は小学生の頃から始まっていたから、来る日も来る日もああいえばこういいこういえばああいいの毎日で、反抗が激しく母の手には負えなかった。 中学2年生の担任の先生から母同伴で職員室で厳しくしかられた。新聞配達禁止、趣味一切禁止、遅刻はするな、学校は休むな、勉強をまじめにしなさい、毎日日記をつけて持ってきなさいといろいろ言いつけられて、私は今までの自分のでたらめさにはじめて気がついた。それまで自分を省みることはなかった。 私は先生との約束は守った。それには、心の中では、自分との苦しい闘いが続いた。趣味は失った。新聞配達の楽しみも失った。しかし私は集中力は高かったから今度は勉強に集中した。 その後、昔の趣味のことは忘れていた。大学も全くかつての趣味とは関係のない分野に進んだ。しかし心の中では自分との闘いが続いていたから、読書はすべて内面の問題解決のためだったから、自分の大学の勉強とは関係なく、広範な分野に及んだ。そしていよいよ就職を決めなくてはならない時期に来た。振り返ってみると結局は7、8歳の頃のあの感動の記憶が自分を導いていることに気づいた。 違っていたことは、趣味に没頭していた頃は、将来は大学の電気工学方面に進みたいなどと言っていたけれども、その後、物相手の技術系(工学部系)には何の興味もなかった。とっくの昔に卒業してしまっていた。それよりもミクロの世界から宇宙の果てまで、心の世界まで、過去から未来まで、心の世界を広げる方が面白いと思った。 内面的な自分との闘いのうちに、心理学、精神分析、心と体の問題、性格についてなど、法学、経済学、自然科学などと興味があまりに広がりすぎていたから、物相手の仕事など面白いとは思わなくなった。創造性を発揮する余地のない、ただ生活のためにのみ実務的な仕事に追われるのはまっぴらだと思うようになった。人類世界に貢献するような実績も上がっていない大学に未練がましく残る気もなかった。 最終的なところで高校物理教師に落ち着いた。昔の趣味につながっていて、夢を語ることができて、心の問題にもかかわることができるし、これが私にぴったりのはまり場所だった。少なくとも昭和60年頃まではね。その後は学校も私が幸せと思う場所ではなくなった。 とはいっても、定年最後の1年間勤務した福岡工業高校では40年前の初任校である佐賀(西)高校、佐賀北高校時代に戻ったように幸せだったし、定年後講師で勤務した博多青松高校では、自分が常勤講師であることを忘れるくらいに朝も他の方々より1時間早く、帰りも勤務時間を忘れて夜まで、仕事を持ち帰って徹夜するほど、全力で仕事ができて、大きな充実した毎日をもらった。 |