| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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温故知新、古きを知らずしては、今も見えず、先も見えずといいます。 太平洋戦争敗戦後移植されたアメリカ民主主義により日本人が日本人としてのアイデンティティを喪失した。 太平洋戦争中の生活やあの時代の人々の記憶があればこそよくわかります。戦争で兄を亡くしたという不幸はあったけれども、それでも精神のたるみきった今の時代の方がもっと不幸に思います。 水は自由にすれば高い方から低い方へ低い方へと流れてとどまることを知らない。 経済成長によって物・金の豊かさの中で育ったたるみきった精神を自由にすれば、低い方へ低い方へと、とどまるところを知らず堕落していく。 民主主義社会は自由が尊重される。公序良俗に反しない限り誰もが自由である。一方社会も自由経済の競争原理が支配する。 経済的競争原理は教育にまで浸透し、人間の精神まで染め尽くし、学力競争は人間の精神を蝕んでいく。低い精神は限りなく人間としての心を失い利己的になっていく。 学力競争によってつけた似非学力。似非学力で社会的地位を得た人々の集団が国を滅ぼす。政治家だって、企業だって、官庁だって、学校だって、「いわゆる」優秀と言われる人々の集団からは一流の人物は駆逐される。悪貨は良貨を駆逐するという格言どおりである。 優秀であるということは諸刃の剣。一流にもなれば三流にも四流にも悪にさえもなる。内面性の欠如した似非学力が支配する民主主義は腐敗と堕落以外にない。 高度経済成長期には経済の成長と反比例して精神が凋落した。さらに自由化、民営化、競争原理を進めれば民主主義はますます腐敗し堕落していく。 太平洋戦争前から戦中、戦後という長い年月を隔てて人間の心の変化を比べると、病の深刻さがはっきりと見える。1945年という太平洋戦争敗戦を境にして、日本人の内面劣化がはじまった。とりわけ劣化が急速に進行したのは高度経済成長にさしかかった頃からである。 もっと長い視点で、近年のNHK大河ドラマ「篤姫」は日本人本来のものの考え方、日本文化の美、日本人の心を知る上で最高の作品だった。それから幕末から明治を作り上げた人物像を描いた「坂本龍馬伝」、明治・大正・昭和と小さな国だった日本を世界の近代国家にまで作り上げた当時の人々の心を描いた「坂の上の雲」がある。 現代日本人とドラマに描かれた人物とどこが違うか、わかりやすく言えば顔つきが違う。現代日本人のぬるま湯に浸かってふやけきった顔つきとはまるで違う。現代日本人の代表である政治家の顔とを見比べてみればわかる。 太平洋戦争ではこの国を焼け野原にしてしまったけれども、この戦前派の日本人のDNAを持った人々によって世界一の経済大国にまで復興させた。この日本は奇跡の国というべきだ。 同じ現代でも、発展途上国の人々のたくましさと現代日本人のひ弱さを比べてみれば歴然である。お金や物の豊かさとは関係ない。 お金や物が豊かになればなるほど人間の中味は劣化し、貧しくなっていることに気づく。その国の言葉を学んでその国に行ってみればすぐにわかる。物にばかり関心をもち、新しいもの、高価なものを追い求めるのは精神の貧困でしかない。 言葉を学ぶということは、読み書きができるとか、会話ができるとか、表面的なことばかり話題になるけれども、長く真剣につめていると、そんな単純なものではないことに到達する。その国の人になりきらなくては最終的には会話はおろか、読み書きさえも本当にはできないということを。 言葉の微妙さまで理解できない間は、外国語ができますなどというのはおこがましいと思っている。現代人はまともな日本語すら話せず、書けず、まして外国語は言うに及ばない。 外国に住むか、両国の言葉の微妙を肌でわかっている人から教わらない限り、本当の意味で話せるようにはならない。外国語を学ぶことで、逆にこの日本が見えてくる、世界が見えてくる。 そのほかに、長年の気管支喘息が治った体験や心身の健康について、ソウルやラスベガスなど海外旅行の思い出、小説アラスカ物語について。 楽して精神の成長はないと思います。年若くして何でも「これでいいのだ」と思ったときが人生の終焉である。 |