| 幼いころ母が庭に植えたへちまのことを思い出していたら、情報社会が繊維だけのすかすかのへちまのタワシのように思えて仕方がなくなった |
| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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遠い昔、私が幼い頃、母が家の庭にヘチマを植えた。へちまのことを思い出していたら、情報社会が繊維だけのすかすかのへちまのタワシのように思えて仕方がなくなった。 ヘチマの若い実は食用になる。戦時中食べるものすらなかった時代にこのヘチマの実を輪切りにして、油で炒めて、へちま料理を作ってくれた。今でもその味は微かに記憶に残る。 葉っぱが完全に枯れたとき、実の皮を剥ぎ、水にさらして果肉をとり、黒い種子をとり、残った繊維だけの形骸化したヘチマは乾燥させればヘチマのタワシ。 へちまの茎を地上20センチ位のところで切れば、切り口から水が滴り落ちる。これが母のへちまの化粧水。 現実世界は生きたヘチマの実。情報は0と1の繊維だけのへちまのタワシ。実質もなにもないすかすかのへちまのタワシ。 生きたへちまを見たことのない人が「へちまのタワシ」を見て、へちまのイメージを作り上げたのが仮想世界。生きた実物のへちまとは似ても似つかない。 仮想世界で仮想のへちまを食べて生きているのが現代人。霞を食って生きているようなものである。0と1に置き換えることのできる情報(言葉や知識など)は生きた世界の抽象の産物でしかない。 文章は情報。情報発信者の生活経験と文章力こそ情報化能力。情報の受け手の生活経験こそが情報読解能力。 情報は一人歩きをはじめる。玉石混交の情報が真実と誤解されたまま一人歩きをする。 情報(デジタル)は高度な情報技術によって忠実に伝わる。しかし真意(アナログ)が伝わることはまれである。西洋文明の情報とはそういうものである。 真意は以心伝心で伝わるもの。心は文章の論理的解釈からは伝わらない。文章の行間や紙の裏側から伝わるもの。それが東洋文明だったはず。 発信者の真意が丸ごと伝わる情報こそが究極の情報、質の高い情報というべき。またそういう情報は読み取り側の豊富な経験とすぐれた能力を要求する。 |