こども時代の遊び場〜川〜

Sat.Feb.02.2002
Mon.July.20.2009

ハイサーイ!私の徒然草


 昭和20年代、60年以上も昔の情景が浮かぶ。魚釣りをしたり泳いだりした川の周辺はすっかり変わってしまったけれども、いつも遊んでいた場所の形は地図上にはっきりと残っている。

 家から南に300mほど行くとJRの踏み切りがある。ここには2歳年上の従兄と2人でよく汽車を見に来た。千葉県の水戸から引っ越してきた従兄は蒸気機関車のことを“常磐線、常磐線”と言った。駅員さんから“ちがう、これは鹿児島本線だ”と教えられた。貨物列車を引く蒸気機関車は動輪が4個だの、客車を引く機関車は動輪が3個だのと言った。

 JR吉塚駅から鹿児島本線と篠栗線が分かれる。この踏み切りを渡って鹿児島本線の土手下の道を左に歩いて行く、右には古い民家が並び、民家の裏はドブ川が、その向こうには宇美川が流れる。この川のことを子どもたちは“郷口川”と言った。

 500メートルも行くと、ドブ川と宇美川が合流する所に幅数メートルの細長い楔形の陸地がある。ドブ川にかかった幅30センチほどの石の橋、橋というより石柱が渡してあるだけだ。この橋をバランスをとりながら渡った所が釣り場であり水遊び場所だ。川とはいっても濁川である。川底に足がつくとどろっとしてぞっとした。

 魚釣りとは言っても大きな魚は釣れはしない。フナ、ハゼ、小さなうなぎの子、エビの子、どんこ・・。それに釣り糸だって縫い糸を使っていたように思う。釣り餌はミミズ。勝手口近くの排水マスの中にはイトミミズの塊があり、じめじめした地面や畑などを掘ればミミズはどこにでもいた。

 たくさんの子どもたちが泳いでいても流されそうになった子はいない。溺れそうになった子もいない。子がどこで遊んでいるか親は知っていたのだろうか。見に来た親などいはしない。

 少し下流には大きな木の橋がかかっており、その先で多々良川と合流して名島で博多湾に注ぐ。ずっと上流には篠栗線の鉄橋が見える。遊び場から両側には背丈ほどの高さの細い竹が生い茂り、人が1人通れるくらいの道ができていて、上流の鉄橋まで行くことができた。

 さらに遡ると福岡空港の横を通って三郡山、宝満山、四王寺山などに行き着く。四王寺山の向こう側には太宰府天満宮がある。上流に興味はあったが、遊びはこの鉄橋までだ。ずいぶん遠く感じた。

 この鉄橋を渡って遊んだ。いつ汽車が来るかわからない。年長の子が年下の子にいろいろと教えてくれた。レールに耳をあてて列車の音を聞いて列車の気配があると慌てて枕木の上を飛ぶようにして渡り、後ろを振り返って身震いをした。よく列車事故に遭わなかったものだと思う。

 大抵は日が暮れるまで遊んで、帰りは鹿児島本線の土手に上がり線路の上を歩いた。線路の枕木の間に沢山の月見草が月明かりの中で一斉に黄色い花を開いていた。私達は年上の子から、列車が通過したら、その後は当分列車は来ないから大丈夫だと教えられていたけれども、通りかかった保線係のおじさんが「安心してはいけない。いつ列車が来るかわからない。線路を通っちゃ行けない」と注意をして一緒に歩いてくれた。

 事故がなかったのは年上の子が下の子の面倒をみたからである。高校生くらいの子が小学生を沢山引き連れて海水浴に連れていったり、鬼ごっこ、かくれんぼ、ビー玉、パッチン(めんこ)と様々な年令の子が一緒に遊ぶうちに下の子に生活の知恵が継承されていった。そういう時代だった。

福岡空港:当時は米軍の板付基地、その前は旧日本空軍蓆田飛行場(むしろだ飛行場)