| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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「物は物でしかない」と思うようになった。 柳田邦男氏が「言葉の力、生きる力」という著書の中で、「はじまりの記憶」という言葉を使っておられた。私はまさにその通りだと思った。 大人にとっては小さなことであっても、子供が学齢に達する前、遅くとも小学校の低学年の頃までに、強烈な興味を惹く出来事に出会うことがあると、その後はその方面の出来事に非常に感受性が高まる。そしてそれが無意識のうちに人生を方向づけていくという。私にも小学校2年生の頃にそういう経験をした。 さらに、ソニー名誉会長である井深大氏がその著書「0歳からの母親作戦」の中で書いておられるのは、目次第66番目に、『「飢餓状態」に置いてこそ、子どもは自発的に学ぶようになる』と書いておられる。これも私が経験していて、まさにその通りだと強く心を打たれた。 小学校2年生のときに非常に強い興味を持ち、いつか自分も鉱石ラジオが作れるようになりたいという気持を持ちながら、小学校4年生か5年生まで2、3年間飢餓状態に置かれた。その間作りたい作りたいという気持は募っていった。もらった部品1個を宝物のように大切にしていた。 小学校2年生の興味を持ったあのときに、恵まれた環境にあって、すぐに必要な部品一式をそろえてもらったとしたら、こんなに気持を募らせることはなかったと思う。さっと気持が冷めていたかもしれない。電気のことに詳しい友人の兄さんの所に毎日毎日入りびたりだった。学校から帰るとすぐに友人の家の2階に上がった。決してその兄さんは手取り足取り教えてはくれなかった。私はお兄さんのすることをジーっとそばで見ていて、時々あれこれお兄さんにたずねることで、少しずつノウハウを習得していった 鉱石ラジオから始まって、5年生くらいになると、並四受信機くらいは自分で作れるようになり、自分で作ったラジオが役に立っていた。6年生になるとかつての最新式のスーパーヘテロダイン受信機や無線機や携帯ラジオまで作れるようになった。 はんだ付けの要領から、回路図の見方、真空管の働き(電子の動き)、抵抗器やコンデンサーの働き、真空管のカソードバイアスだとか、検波管、周波数変換管、出力管、その原理にいたるまで、友達の兄さんのすることを毎日毎日じっと見ているだけで、職人さんみたいに理解した。コンデンサーや抵抗器、真空管も一通り分解して理解していたから、中学1年生にもなれば、症状を見ればどこが故障しているか、どこをどうすれば直るかすぐにわかった。 だからコンピュータ時代になってからも、最初の電源の入れ方切り方、注意事項程度でそれ以上人に教わったわけではなくて、本能的に使ってきた。ほとんど自分で問題解決してきているし、困ったことはない。必要があれば必ず解決するし、道具として使っているだけだから、コンテンツ(語るべきもの)が大切で、道具については必要以上のことは知る必要もない。 相当にはまり込んでいたけれども、ある出来事がきっかけで、卒業した。高校時代には技術的な仕事には興味はなかった。科学技術というように科学と技術は車の両輪、というか、科学と技術と経済は密接に関連して発展していくものではあるが、私は科学に興味は移っていた。科学には理科の顔と文科の顔とがある。私は文科としての科学にしか興味はなくなっていた。 ミクロの世界から宇宙の果てまで、人間の心の世界を広げる科学しか面白いとは思わなくなっていた。それは文学・心理学・法学(法律学ではなく法学)などと通じるものがある、そういう科学にしか興味はなくなっていた。 物理の教師を選択したのはそのときそのときの状況での選択の結果である。工学部、医学部を受験せず、あえて多くの友人たちとは逆の発想をした。難しいから受験するということはしなかった。その頃も文系でやっていく自信はなかった。理科系よりある意味で難しいと思った。理系で文系の発想ができることが理想である。「心」とのかかわりで物を見ていかなくては面白くない。だから新しいというだけで物を追う趣味はない。 とっくに13歳のときに物は卒業していたのです。この13歳というのは人生の転機として、物から心への転機の一番大切な時期なのです。私の反抗期は激しかった方だと思う。それも小学校高学年から13歳までの頃だった。 学校のお勉強とは別に、学校のお仕事とは別に、ずっと別のことを考えてきて定年退職したときにそれが本流になった。 |