私と幽霊話
Sat,July04,2009
| [ハイサーイ!私の徒然草] |
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私が幼い頃、我が家は道路から幅3メートルくらいの敷地を25メートルほど入った奥まったところにあり、門の脇に大きな柳の木の枝が垂れ下がっていた。幼い私が柳の木の下に1人立っていると近所の子が5、6人で私を取り囲みユ〜レイ!ユ〜レイ!とからかった。いつも泣いた。 小学校の頃は、古い映画館があった。時すでにトーキーの時代になっていたが、ここではまだ弁士が画面に合わせて熱弁をふるう無声映画だった。画面は傷だらけの雨降りの白黒映画である。 当時はまだ映画とは言わずに活動写真といった。映画を観に行こうではなくて、「活動」を見に行こうと言った。観客席は階下は椅子席だったが二階は畳敷きだった。 長谷川一夫や大河内伝次郎、坂東妻三郎(板妻)の時代である。古川ロッパ、エノケン(榎本健一)、キンゴロウ・・。 当時新聞配達をしていた頃、販売店にはこの映画館のチラシが入るたびに、招待券がもらえた。私達はそれを楽しみにしていた。 この映画館で上映されていたのが、長谷川一夫や坂妻(坂東妻三郎)の時代劇や鍋島の猫化け騒動とか、牡丹灯籠だとかこわい怪談ものだった。こんな映画を見た日の夜はトイレに行けないくらいこわかった。怖がりのくせに性懲りもなく見に行った。 1963年4月に急に県立佐賀高等学校に物理の教師として採用が決まり、常直(じょうちょく)してよいという校長の言葉を真に受けて、蒲団袋と洗面道具を学校の宿直室宛に送り、転がり込んだ。 当時は教師が交代で宿直をした。宿直手当てはわずか200円。し〜んとした夜間の校内の巡回はゾ〜っとしたけれど、ドキドキするようなハプニングもあった。 男性教師が毎晩交代で宿直室に泊まり込んで夜2〜3回くらい校内を巡回しなくてはならなかった。職員数が多い学校は2ヶ月に1回くらいしか順番が回ってこないが、分校のように職員数が少ないところでは10日に1回、1週間に1回の割合で順番がまわってくる。夏だって冷房があるわけではなし。夏休みも冬休みもないから、家庭持ちは代わってもらえるものなら代わってもらいたくて、私が一手に引き受けた。 佐賀県で一番古い学校で当時は木造校舎だった。深夜巡回中に風でドアがギギーッ、バタンと鳴る。背筋がゾーッとする。泊まり込みは教師のほかに3人の用務員さんが交代で泊まる。深夜の校庭の片隅やプールなどではドキドキするようなハプニングもあった。 分校にも泊まった。佐賀市の東の外れに分校があった。最初の数ヶ月間、週1日だけ教えに行っていた。ついでにその前日は宿直を引き受けた。 田園地帯の小さな集落の中に鍋島藩支藩のお城あとの公園があって、分校はその中にあった。背後は川がぐるっと取り囲むように静かに流れ、木々がうっそうとして静まり返っている。 何人かの先輩教師が深夜に何か変わったことはないかと意味ありげにたずねた。その宿直室では毎夜鍋島藩の武士の幽霊が枕元に立つといううわさがあると言う。 深夜懐中電灯をもってとぼとぼと巡回していると、なま暖か〜い夜風がふ〜っと吹こうものなら思わずゾクゾクッとした。 |