佐賀に赴任したころ

   今の学校には宿直はないが、当時は教師が交代で宿直をした。宿直手当ては200円。夜間の巡回はゾ〜っとするようなこわさもあったけれど、ドキドキするようなハプニングもあった。


Fri.July 6.2001

[ハイサーイ!私の徒然草]

 私が小学生や中学生だった頃、担任の先生が宿直だと聞けば、友達と誘いあって宿直室に遊びに行った。それは楽しみのひとつだった。しかし、私が佐賀北高校に勤務していたころ宿直制度は廃止されて警備員が警備に当たるようになった。5時だったか6時だったかには校舎に鍵がかけられた。校舎内に居残る場合は警備員さんの許可が必要だった。部活動が活発だったこの学校では遅くまで居残る生徒は多かった。

 1963年(昭和38年)4月になってから急に佐賀県立佐賀高等学校に採用が決まったのでまだ住む場所も決まらないまま、常直(じょうちょく)してもよいという西村校長の言葉を真に受けて蒲団袋と洗面道具を学校の宿直室宛に送り転がり込んだ。

 宿直というのは男性教師が交代で宿直室に泊まり込み、夜間、校内巡回して警備にあたる。職員数が多い学校は2ヶ月に1回くらいしか当番が回ってこないが、分校のように職員数が少ないところでは10日に1回、1週間に1回の割合で順番がまわってくるので相当な負担になる。

 佐賀高等学校は佐賀県で一番歴史の古い学校なので建物は古い木造で、深夜巡回中に風でドアがギギーッ、バタンと鳴る。背筋がゾーッとした。深夜の学校は不気味である。泊まり込みは教師のほかに用務員さん3人が交代で泊まる。深夜の校庭の片隅やプールなどではドキドキするようなハプニングもあった。

 夜巡回していると校門脇の校内の掲示板の陰に立っている男女二対の脚が見えた。私はドキドキした。警備員さんに言った。私よりずっと年上ではあったが警備員さんも若かった。現場に走って行ってこらーっと追い返した。気の毒なことをした。

 またあるときは深夜のプールで水音がした。フェンスを乗り越えて若い男二人がプールに飛び込んで遊んでいる。プールサイドでスイカを食べた形跡があった。こんなことをしてもらっては困る。用務員さんはすぐに警察に電話をしてパトカーがプールサイドまで急行した。二人はお灸をすえられた。

 佐賀市の東の外れの千代田町(当時は千代田村)の近くに蓮池分校があった。毎週1日教えに行った。ここにも毎週1日だけ泊まった。ここが1番こわかった。今のように犯罪の心配はなかったが、田園地帯の小さな集落の中に蓮池公園があって、校舎はその中にあった。背後は川がぐるっと取り囲むように静かに流れ、木々がうっそうとしていて静まり返っている。

 先輩教師から深夜に何か変わったことはなかったかと意味ありげにたずねられた。その宿直室では毎夜鍋島藩の武士の幽霊が枕元に立つといううわさがあると言うのである。肩付近がゾ〜ッとして身震いした。この校舎は今は立派な蓮池公民館と分校の資料館になっている。ここは昔鍋島藩支藩の蓮池城だったという。

 私が幼い頃、我が家の玄関を出て門のところまで行くと、大きな柳の枝が頭上に垂れ下がっていた。昔から柳の下には幽霊が出るということになっていて、幼い私が柳の木の下に1人立っていると近所の大きな子が5、6人で私を取り囲みユ〜レイ!ユ〜レイ!とからかった。幽霊とは何かも知らず、ユ〜レイ!ユ〜レイ!といわれれば泣くことになっていた。

 小学校の頃は、福岡市博多区吉塚というところに古い映画館があった。よそはすでにトーキーの映画を上映していたが、ここではまだ弁士が出てきて画面に合わせて熱演する無声映画だった。長谷川一夫や大河内伝次郎、坂妻の時代である。古川ロッパ、エノケン、キンゴロウ・・。画面は傷だらけの雨降りの白黒映画である。当時はまだ映画とは言わずに活動写真といっていた。映画を観に行こうではなくて、「活動」を見に行こうと言った。観客席は階下は椅子席だったが二階は畳敷きだった。畳の席では終戦後のことなので南京虫に刺された。

 この映画館で上映されていたのが、長谷川一夫や坂妻(坂東妻三郎)の時代劇映画や鍋島の猫化け騒動とか、牡丹灯籠だとかこわい怪談映画だった。こんな映画を見た日の夜はトイレに行けないくらいこわかった。怖がりのくせに性懲りもなく見に行った。当時新聞配達をしていた販売店には映画館のチラシが入るたびに、招待券が送られてきた。私達はそれを楽しみにしていた。

 だから幽霊がでるといううわさのある分校の宿直で、深夜懐中電灯をもってとぼとぼと巡回していると、なま暖か〜い夜風がふ〜っと吹こうものなら思わずゾクゾクッとした。

 1ヶ月も宿直室住んでいると、入れ替わり立ち替わり先輩教師が泊まりに来るので、私にとっては学校の様子を知るには好都合だった。短期間で多くの先輩教師と知りあいになった。私をお見知り置き願うには好都合だった。当時初任給1万9600円で自動車教習料が1万9000円、実技試験免除コースなら2万数千円だった。宿直手当てが1日200円、家庭持ちは泊まりたくない。できれば誰かに交代してもらいたいと思うのが人情である。

 私が連日宿直を請負った。持ちつ持たれつでうまくいっているかに見えた。しかし数人の若い先輩教師が深夜度々転がり込んだ。私が宿直室にいるとこういうことになるから、理科主任の酒見泰介氏が御親戚の上多布施の吉富家に下宿を世話して下さった。

 隣の事務室から女性職員が出てきて、あらー、引っ越すとオ?よく転がり込んでいた先輩教師は、出て行かんでもでもよかやんね!もっとおらんね!とずいぶん惜しまれて宿直室をあとにした。引っ越した翌日突然○○家の畳の床が落ちて机ごとひっくり返ったのには驚いた。夕方帰ってみたら元通りになっていたので、ここの吉富先生は床の修理もなさる器用さに先ず驚いた。以後6年間この吉富家にお世話になった。

 かぐや姫の「神田川」という歌にも下宿という言葉はあるが、我々の時代の下宿は後の時代の下宿とは全然違う。下宿先の家族の一員になるということである。食事も一緒、おやつやお茶にも声をかけて下さり、テレビも一緒に見て、我が家と同じ気持でした。今の感覚でいえば長期のホームステイといった方が近い。部屋の掃除くらいはこまめにしていたが、ただ今にして思えば気が利かないことが多かったなあと思います。両親とおばあちゃんと高校1年生の息子さんと中学3年生の娘さんと私である。弁当も持たせて頂いていた。父親母親弟妹付きで父親や兄弟姉妹がいなかった私の欠陥を6年間補っていただいた。

 昔は部屋だけを貸すことを間貸し、借りることを間借りといって下宿というのは賄い付きのことである。ただし、経営としての「下宿屋」というのは地方にはなかった。下宿屋と下宿はちがう。賄い(まかない)つきというのは食事付きということである。

 いいことばかりでしあわせだった佐賀時代の記憶はしっかりよみがえるのですが、佐賀に行っても私は浦島太郎。いい思い出として“佐賀は遠くにありて思うもの”かなあと思う。


1963.04〜1965.03 □□高等学校クラス写真