あほ化が止まらない日本の上層部

〜この国はブレーンがいない手足人間社会である〜

Sun.May,29,2011

[ハイサーイ!私の徒然草]

 どこが?と言われても、どこもかしこもそうだから難しい。とりわけ政治家のあほ化は国民にとって被害は深刻である。

 政治家のあほ化などと言えば、平均的に言って彼らを選んだ国民のあほ化と言っていることになるから、わが身に降りかかってくる。

 まだ、希少ながら「器」がいないわけではないけれども、昔から類は類を呼ぶというように、選挙でも類は類を選ぶと言ってよい。これはどうしようもない。

 「人材」も必要ではあるが、いかに優秀だったとしても人材は人材にすぎない。人材として優秀な人はたくさんいる。しかし人間としての「器(うつわ)」がいない。

 言わば、社会の手足としては優秀な人材はいても、社会の頭脳がいない。リーダーがいない。

 政府にも「ブレーン」がいない。手足人間ばかりで支離滅裂で収拾がつかない。

 今一番必要とされているのは、いわゆる優秀な人間ではなくて、一流の人物である。

 優秀と言ったって何が優秀かわかったものではない。

 いい事を言う人間か。いい事を言う理屈人間か。政党のマニフェストがまさにその見本。いい事を言う人間が信頼に値するのか。

 そうじゃない。言ったことをひとつひとつチェックしたところで意味はない。

 真実は言葉では表現できない。言葉は抽象の産物であり、「デジタル」である。

 デジタルである言葉をいくら連ねたとしてもアナログ世界を再現できはしない。

 論理的思考はさも難しいことのようだが、単細胞思考である。論理的説明で説明できるのはきわめて単純なことだけである。

 複雑なことを言葉で説明する複雑な文章。どんなに複雑で膨大な文章を作っても言い尽くすことはできない。

 必ず限りなく隙間が残る。保険の約款を見ればわかる。最終的には隙間をアナログ思考で埋めるしかない。

 アナログ思考のできない「理屈人間」にはそれができない。その究極が「モンスター人間」である。

 そのモンスター人間が急増している。学校でも、町内の仕事をしていても、いたるところで出会う。

 今、必要なのは、「人を恋うるの歌」の中にある「六部の侠気四分の熱」ではないだろうか。

 これを完全に喪失してしまった人々ばかりが日本の上層部にあって国をあほ化してしまったと言える。

 その源をたどれば、それは「競争原理」にある。少なくとも「教育」にまで「競争原理」を持ち込んだことにある。

 競争原理で勝ち抜いた人々がこの社会の上層部を占めるからこそこの社会上層部があほ化した。

 競争では教育は破壊される。それがわからない国民が多数化したために社会全体があほ化したと私は思っている。

 競争で似非学力(試験の点数)は向上する。しかし思考力だとか、心だとか、志だとか、遠い将来を見通す力とか、熱い心だとかは決して育たない。やせ衰えるだけである。その結果である。