GDP神崇拝はいい加減にせよ

Fri.Jan.21.2011

[ハイサーイ!私の徒然草] 小春日和の韓国語のお勉強

 中国が世界第2の経済大国になったそうでおめでとうございます。しかし、・・・。
 これまで雇用を増やすには経済成長が必要だとか、経済成長で国民生活の底上げができると言ってきたがこれはまちがいである。

 資本主義は、国民にできるだけ沢山の物を消費させ、浪費させて、湯水のようにお金を使わせて成り立つ。

 現代社会では、本当に必要な物よりも無駄なものがあふれて、無駄なことにお金をうっかり使ってしまう。国民がみんな完璧に賢くなったならば、資本主義は成り立たなくなる。

 お金があると、無駄な物を排除したら面白くないと思う。お金がなければ、人生にとって何が大切で何が無駄かを考えてお金を使うようになる。

 経済発展して、科学技術が高度になればなるほど困るのは、最低限の生活コストが高くなることである。収入が追いつかない人々が増えてくることである。最低限の生活コストが低かった昔は、自分の収入が少なくても雨露しのぐ場所さえあれば何とか生活できた。現代ではそうはいかない。

 家が借家ならば、お金がなければ追われ、持ち家ならばローンや維持費や税金に追われる。とてもやってはいけない。

 昔は狭い地域にあらゆる種類の小さなお店や工場があって生活に必要な物は近くで買えたから遠くまでいく必要がなかった。現代ではショッピングセンターだとかスーパーまででかけなくてはならない。

 住宅地は交通不便になり、ちょっと動けば交通費がかかる。車がなくては生活できない。あげればきりがないけれど、経済成長すればするほどこの傾向はひどくなる。

  かつての日本のように、経済成長して格差が縮まって国民総中流といえるような時代はもう来ない。経済成長すれば生活の底上げになるだろうというのは幻想である。

 かつての日本と今の日本の大きな違いは国民が自らの生活を守るために、人権を守るために闘うということを忘れてしまったことにある。

 いつからそうなったかははっきりとわかる。それは60年安保闘争後あたりから、学生が政治活動をしなくなった時である。大学祭が本当のお祭りになった時からである。

 大学が、一部を除いて、学問研究の場であることも、研究者を育てる場であることをも忘れた時からである。大学院が大衆化した時からである。すべてが安物になった時からである。

 それから総評のような闘う労働組合が姿を消した時である。今の春闘などは連合と経済団体とが交渉しているけれども、労働基本権の最後のひとつであるストライキ権を背景にしない交渉なんて交渉にもならない。

 労働組合側が丸め込まれるか、労使なれ合いの場以外にはない。第一、今の働く人々は労働基準法すら意識外になっているのではないか。軍事力を背景にしなくては国際的な外交が成り立たないのと同じである。主権さえ守れはしないのと同じことである。

 中小零細企業で労働争議されたらたまったものではあるまい。中小零細企業は業種ごとに労働組合を作って大企業や政府相手に闘うべきだ。そうしなくては格差は開くばかりである。問題はGDPではない。個々の企業内ではなくて、国全体としての国民全体への利益配分の問題である。

 そういう観点からすれば、競争を野放しにした小泉政権はしてはならないことをしてしまったことになる。今、菅さんが環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定(TTP)参加を検討しているようだが、大丈夫なのだろうか。

 自由化というのは強い者、強い国に有利になる。競争はますます激しくなるだけである。国内産業を守れるのか。産業構造が大きく変わる間、しばしの混乱があっても最終的に格差縮小の方向に向かえばいいけれども、日本政治の劣化のひどさをみると、格差はますます拡大するのではないか。

 GDPが大きくなれば、国としては強くなる。しかし、国民生活は天国と地獄である。GDPは無駄なお金が回ってもすべてGDPに加えられる。資源浪費の指標、環境破壊の指標、格差拡大の指標でしかない。

 おまけに、人口が大きければGDPが大きくなるのは当たり前。GDPが大きくなっても国民一人当り平均の金回りは中国は日本の10分の1だと言うではないか。国民は生活苦に喘いでいるのに、国は国際社会で傍若無人に振る舞い、太る人間ばかり太り、もう片方には飲まず食わずの大多数の国民が泣いているだけである。それは貧しい中国国民自身が知っていることである。

 うらやむ必要はないが、国が共産主義の仮面を被った帝国主義に走るのだけは国際社会が防止しなくてはならない。