仙谷長官の盗撮発言は当然

Fri.Nov.12.2010

ハイサーイ!私の徒然草

 これは政治の問題というよりも、倫理上の問題である。

 仙谷長官は、先日の委員会の最中に自ら読んでいたメモが撮影・報道されたことを「盗撮だ」と批判していた。

 これは仙谷長官の批判が正しい。最近では、望遠レンズを使えば原稿が見えるかもしれない。しかし覗き見ていいものと悪いものがある。つまりこれは人間としての節度の問題である。仮に見えたとしてもそれをマスコミで報道するというのは人間としてしてはならないことである。これは絶対に許されないことである。

 スパイならばいざ知らず、見えるものは何でも見てよい、という考えは道義的にしてはならない一線というものをわきまえない人間の考えである。現代日本人の多くが仙谷長官のマスコミ批判はおかしいと思っているのだろうか。

 私は幼い頃から、他人の机の上にある手紙、文書、日記など、たとえ見ようと思えば見える状態にあったとしても、見てはならないと教えられ、それが昔の日本人の人間としてのモラルだった。仮にはからずも見えたとしても見なかったことにするのが昔の日本人だった。見てはならないものがうっかり見えてしまったときは後味の悪い思いをしたものである。

 コンピュータが普及した現代では、コンピュータの故障・不具合などをサポートする職業がある。こういう人々が個人のコンピュータを預かって持ち帰ったとしても、いちいち中に保存されたファイルの中身に関心などもっていたら仕事にならない。

 私だって時々コンピュータを預かって帰ったり、ハードディスクの処分をしたりお手伝いすることがある。しかし中のファイルのタイトルくらいは見たくなくても見えるけれども、その内容を除き見るようなミーハーな低俗趣味は持ち合わせない。コンピュータの不具合を直すこと以外何の関心もない。もしそこまで疑うとすれば、コンピュータの修理など人に頼めはしないし、引き受けもできない。むしろ疑うことを恥じるべきである。

 官房長官が手にしている原稿というのは、読まれて初めて公になるものであって、それ以外の内容は仮に望遠レンズで見えたとしてもこれは見てはならないものである。見えたとしてもそれをマスコミで報道するなどというのは、記者のモラルも地に落ちたものだ。

 公にするつもりもなく、公にすべきではないメモというものもありうる。そんなものまで望遠レンズで盗撮して公にする権利がどこにあるのだろうか。こんな道義に反する節度なき行為まで報道といえるのか。一体、こんなマスコミに報道の自由を言う資格があるか。

 それを「盗撮」と呼んでどこに間違いがあろうか。なぜ官房長官は謝罪しなくてはならないのか。謝る方もどうかしている。報道陣がそこまでするのであれば、カメラの性能などに制限を加えるべきではないだろうか。

 仙谷長官が「盗撮」という言葉を使ったのはおかしいという日本人が多数だとすれば、礼儀も倫理規範もわきまえない現代日本人の人間としての質の劣化がここまで進行したとしかいえない。