墓の改葬と先祖供養

Sun. Sep.07, 2008
[ハイサーイ!私の徒然草]

   そもそも葬式であれ、先祖供養であれ、亡くなった人のためのものではなくて、自分自身の心の問題である。「あの世」という別の世界などありはしない。あの世はご先祖を供養する現世人の心の中にある。故人が供養によって成仏すると言うのは、現世にあってご先祖を供養する人の魂が救われるということである。

   ご先祖を思い、人間として立派であろうとする「気位」を新たにするのでなくては何の意味があろうか。

   世間では、私が死んだら誰が先祖の墓守りをするかというが、自分が死んだあとのことまで心配する必要があろうか。死ねば全てが無である。生きていればこそである。心あるものが継げばいい。必ずしも継がなくてはならないというものでもない。永代供養にしてもいい。生き残った人の問題である。

   今回菩提寺の墓地が都市計画にかかって面積が半分になった。墓を残すか、納骨堂に上がるか選択しなくてはならなかった。私は墓を残すことにした。それは私の問題である。

   昭和4年に建立以来80年間の墓石をすっかり磨き上げ、金文字も新たにし、墓誌も整備した、福岡市西方沖地震で破損した部分の補修も済んだ。

   日常生活の中でご先祖様がいつも語りかけて下さった。それから70年も80年も昔の古手紙を読む時にご先祖様は甦る。様々な思いを残して亡くなったことを知る。墓とか仏壇とか、供養だと古手紙だとか、ご先祖につながるものは遠いご先祖へのタイムトンネルである。

   父が建立したこの墓に入っておられるのは父以来の人々である。しかしこの墓は遠い全てのご先祖へ開かれた窓である。ここから全ての遠いご先祖様が見える。

   先祖に思いを馳せることは自分自身を見つめることである。知識や情報や理屈話とは別の世界である。経済中心の競争社会とは別の世界の話である。

   ご先祖あっての自分であり、子であり、孫である。ご先祖と向かい合ったときにはじめて自分に気づき、他人の存在に気づく。人生の意味を考えるようになる。