世界学力ランキングの無意味

Thu.Jan.22.2009

[ハイサーイ!私の徒然草]  

 小中学生の学力の世界ランキングがどうだこうだというけれども、それはペーパーテストで測定できる限りの話であって、今の日本を見ると、いわゆる頭のいい人は沢山いるけれども本当の学力は世界最低レベルまで転落しているのではないかという気がする。本当の学力とは何かを原点に立ち返って考えてみる必要がある。

 今度のアメリカの大統領選挙で見えたことは、アメリカ社会にはいろいろ問題はあるにしても、経済不況とは言いながら、アメリカ国民には活力がある。オバマ大統領のような人材がいくらでもいる。アメリカ政府には優秀なブレーンがいる。知的レベルからしても、心の熱さからしても日本にはこういう大きな人材は見渡す限りほとんどいない。

 いくら日本の科学技術の水準が高いとはいっても、技術というのは社会的に見れば、頭脳ではなくて手足でしかない。日本には理屈屋はいても本当の頭脳がいない。

 情報技術が進歩して便利にはなっても、人間性にとってひとつもいいことはない。インターネットがあれば何でもわかると心得違いをして、長く生きてこなければわからないことがあるとはつゆほども思わない。

 人間として大切なことはインターネットや教育書やマニュアル本では決して教えてはくれない。教えて教えられるものでもない。売上げランキングの高い線香花火のような本ばかりが売れる社会である。

 私は「へちま」と「へちまのたわし」の対比が好きである。「へちま」とは現実の生の世界であり、「へちまのたわし」は抽象の産物であるデジタルな言葉や数字の集積である知識や情報の網の目(ネット)、あるいはその知識や情報を受け取ったそれぞれの人が頭の中にイメージする「仮想世界」に相当する。

 どんなにたくさんの知識や情報を手に入れたとしても、その人の人生経験の範囲内でしか世界をイメージすることはできない。人生経験が浅ければ、どんなに高邁な書物でも単なるハウツーものでしかなくなる。情報が作り出す世界とは情報化能力と情報読み取り能力にかかっており、情報が一人歩きすれば仮想世界で霞を喰って生きることになる。一番大切なことは言葉を越えて人から人へ以心伝心でしか伝わることはない。

 アイデンティティだとか気位だとか、倫理観だとか、やさしい気持だとか、熱い心だとか、人間として一番大切なことがすべて抜け落ちる。しっかりした哲学がなければ子を叱ることができない。簡単なことである。“わがまま”は許さないということだけである。抽象の産物である文字の鎖であるマニュアルではその判断がつかない。頭でっかちでは文字と文字の隙間、行間、紙背は読めないからである。

 本当の学力は学力競争によって破壊される。すでにこの社会は取り返しのつかない状況になっている気がする。親は社会のそういう流れに動じないことである。学力をつけようと特訓すれば、勉強嫌いになるとか、試験の点数は上がっても大切なことが抜け落ちるとか、いずれにしても学力が落下することは必定である。