スペック

Mon.Mar.23.2009

[ハイサーイ!私の徒然草]

 韓国では就職するには、その人の「スペック」が重要になっているのだそうだ。広辞苑によれば、「Specificationの略。機械などの構造や性能を表示したもの。仕様書。仕様」とある。

 いわば人間の仕様書である。英語ができるとか、論文があるとか、留学経験があるとか、何ができるか、どういう実績があるかを全て点数化して、700点以上でないと就職はむつかしいという。だからスペックを上げるためにしのぎを削る。

 「学力」の次は「スペック」か。日本に人間の尺度としてのスペックということばがあるかどうかは知らないが、点数化できる資格や実績、ひとつふたつと数えられるものは高が知れている。

 スペックをあげるために精進第一でえたものは本物ではない。いくつもの「人間のぬけ殻」の数を数えてどうするのだろうか。

 工業製品ならスペックで比較検討できる。しかし人間というアナログな存在を、評価の基準となる抽象的な項目を結んだ網で人間を評価しようとするのは、網で水をすくうに等しい。カスだけが網に引っかかって、実体である水は網の目からこぼれてしまう。

 基準にかからない部分にこそその人の価値が隠れている。人をスペックで選んでいたならば、「本物」はこぼれ落ちてしまう。大切なものを点数化するなどという考えこそがまさに石頭の西洋文明的発想だ。

 学力やスペックの高い人ばかり集めるようなことを続ければ、学校だって、企業だって、役所だって、政治だって何だって、その組織は人間のぬけ殻になり、腐り滅ぶ。国そのものが滅びの道を辿る。

 明治、大正、昭和、平成と時代が下るにほどに、人間がちっぽけになってしまった。最終回は8月だそうだが、「白州次郎」のドラマが放映された。白州次郎が戦勝国アメリカのマッカーサー元帥に「あなたは無礼だ。日本は戦争には負けたが、アメリカの奴隷になったのではない」と大声で怒る場面がある。それが「気位」と言うものだ。

 この学力といいスペックといい、中味のない「へちまのたわし」で何かがわかると思うのは西洋文明のとんでもない誤解である。人も社会も腐敗する。